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空間の拘束
「魑魅魍魎をパンドラの箱の代わりにこの大図書館の書物に封印する。何千年も前にそんな実験が行われてね」
「どうしてそんな……」
暫く絶句していたクレオパトラが漸く声を絞り出すように尋ねた。
「さっきも言ったように、この大図書館がパンドラの箱を模して造られたから」
「つまりそれって、この大図書館を造った人は、パンドラの箱がどういうものか知ってたって事ですか?」
未だ驚きを隠せない様子のアリスは、大図書館前館長アッパレニウスの顔をまるで穴が開くかと思う程まじまじと見ながら尋ねた。
「おや、言われてみればそう言う事になるわね。私とした事がそこまでは考えが至らなかったけど」
いつもの眠そうな表情も何処へやら、アッパレニウスが少しばかり気恥ずかしそうな顔で答えた。
一方クレオパトラは、そんな二人の遣り取りも耳に入らないかのように、眉間に指先をあて俯いていた。
しかし漸く顔を上げると
「魑魅魍魎を封印するのはいいとして、一体どうやって封印してるのかしら?」
眉間に皺を寄せたままの表情で尋ねた。
「なるほど、なかなかいい質問ね、クレオパトラ」
アッパレニウスはにっこり微笑むと
「しかしあんたも観測者の端くれ。ならどうやって封印してるか想像つくんじゃない?」
はぐらかすようにそう答えた。
「なかなか手厳しいですね、アッパレニウス前館長は」
考え込むクレオパトラに代わってアリスは口を挟んだ。
「そう? これでもユークリッドほどじゃないと思うけど」
アッパレニウスはそう言い返すと、頭を抱えるクレオパトラの肩にそっと手を置いた。
「まあ、この場で答えを教えちゃってもいいんだけど、それじゃあんた達もつまらないでしょ」
そう言い終えるとクレオパトラの肩から手を放し、眠そうな顔で歩き始めた。
口をボカンとさせたクレオパトラとアリスがその背中を見つめ続けるのもお構いなしに、彼女は暇つぶしをするかのように近くの書架に手を伸ばし、並んでいる書物を無造作に触っていた。
やがて何かを思い出したかのように踵を返すと
「まあ私も鬼じゃないし、ここは一つヒントをあげるとするか」
そう言ってにっこり微笑んだ。
「私達観測者が魑魅魍魎を退治する時、どうしてる?」
「え?」
その質問にクレオパトラは一瞬戸惑った。
それがいったい何のヒントになるのだとでも言いたげな目で、彼女はアッパレニウスをまじまじと見つめた。
しかしそれも束の間、クレオパトラは気を取り直したように深呼吸すると、ゆっくり口を開き始めた。
「魔法陣を展開して、ものさしで測って魑魅魍魎をパンドラの箱へ封印してるわ」
「正解! 私達観測者の誰もが知っているやり方ね。じゃあもう一つ質問。魑魅魍魎をパンドラの箱に封印するのにものさしで測るのは何故?」
その質問は、アリスに懐かしい記憶を思い起こさせた。
それは彼が師のユークリッドと共に旅をしていた頃の記憶だった。
「アリス、点とは何だ?」
不意にユークリッドは、アリスにそう言葉を投げかけた。
「点とは、位置を持ち、しかしながら大きさを持たぬものです」
アリスは戸惑いながらも、そう答えた。
「そうだ、アリス。点とは位置を持つが、大きさは持たない。そして魑魅魍魎とは特異点。特異点故に、世界に様々な異変を引き起こす。だから俺ら観測者が、魑魅魍魎の大きさを測るんだ。特異点とは点の一種。つまり魑魅魍魎は点の一種だ。そんな魑魅魍魎の大きさを定義出来りゃあ、魑魅魍魎は大きさを持ち、大きさを持たぬもの、すなわち点じゃなくなる。そして点じゃなくなるって事は、特異点じゃなくなるって事だ。これが俺ら観測者だけが唯一、魑魅魍魎を封印できる理由だ」
師の懐かしい言葉が頭を駆け巡り感傷に浸っていたアリスだったが、不意にクレオパトラの言葉が耳に届き、途端に我に返った。
「パンドラの箱の入り口を通れるかどうか測ってるのよ。魑魅魍魎って案外図体が大きいでしょ?」
この時アリスが口の中に何かを含んでいたなら、彼は勢いよくそれを吐き出したに違いない。
「プププププ! その答、なかなか傑作だわ、クレオパトラ! プププププ!」
彼の目の前ではアッパレニウスが腹を抱えながら叫んでいた。
「いやいやいやいや、クレオパトラ……」
アリスは記憶の中の師の言葉が、クレオパトラの先程の言葉で上書きされそうな恐怖感に陥った。
それほど彼女の言葉は彼の記憶に強烈に焼き付いたのである。
アリスはクレオパトラの前に立ち、彼女の目を真っ直ぐ見つめると、師のユークリッドから教わった事を伝えた。
「え? そうだったの? 私てっきり……」
目と口を大きく開いてそう言ったかと思うと、次に顔を赤くして
「やだもう、知ってるんだったら早く教えてよ、アリス! おかげで思いっ切り恥かいちゃったじゃない!」
アリスを抱き抱えるようにしながら彼の背中を何度もバシバシ叩いた。
「痛たたたた……ちょ、ちょっとクレオパトラ! い、痛いってば!」
「あら、ごめんあそばせ、アリス。ホホホホホ!」
そう言うとアリスを抱きしめたまま叩いた背中を優しくさすった。
「君達ってもしかして夫婦漫才やってないと死ぬ病とか?」
そんなアッパレニウスの声に二人はギクリとなって、密着した体を素早く離した。
「そ、そう言えば何処まで話しましたっけ、アッパレニウス前館長?」
「そ、そうだわ! 私も大事なお話の途中だった気がするわ!」
アリスに続いてクレオパトラもアッパレニウスに向けて取り繕うかのような愛想笑いを浮かべた。
「ああ、言われてみればあんた達と大事な話をしている途中だったわね。そうだった、そうだった。途中で夫婦漫才やられちゃったもんで、すっかり忘れてたわ」
「いや、夫婦漫才じゃありませんから!」
アリスとクレオパトラは二人揃って叫んだ。
「息もピッタリだし、夫婦漫才の才能あると思うんだけどね。まあ、それは横に置いておいて、じゃあクレオパトラ、さっきの問いの答を教えてもらえる?」
「え? あれ? さっきの問いって何だったかしら?」
クレオパトラはアッパレニウスから視線を外すと、とぼけた顔で周囲の書架を見回した。
「ねえ、アリス。さっきの問いって何だったかしら?」
それでも彼女と視線を合わせようとするアッパレニウスを何が何でも躱そうとするかのように、クレオパトラは横にいるアリスに顔を向けた。
「え? それってこの大図書館がどうやって書物に魑魅魍魎を封印してるかって事でしょ?」
アリスは怪訝な顔をしながらクレオパトラに答えた。
「あら、そうだったわね! 今、思い出したわ! 流石ユークリッドの弟子のアリス君! 大した記憶力よね!」
わざとらしくはしゃいでみせると
「そんなユークリッドの優秀な弟子のアリス君なら、この問いの答なんて既に出てるはずよね! おっほっほ! おっほっほ!」
そう言ってアリスの背中をパンッと叩いた。
「だから痛いって、クレオパトラ! ってか、この問いを受けたのは僕じゃなくてクレオパトラさんだよね?」
「そうだったかしら? 前にも言ったけど私は過去を引きずらない女だから、そんな昔の事は忘れたわ」
「でも君が過去を引きずらない女だって言ったのは、アッパレニウス前館長のこの問いよりも更に前だよね? なのにその時の事は憶えてるんだ? 君の記憶力ってとっても不思議だね」
「おほほ! お褒めいただき、どうもありがとう」
「いや、褒めてないから!」
「前にも言ったけど……」
そんな二人の遣り取りを暫く傍観していたアッパレニウスが気だるそうに声を出した。
「いや、夫婦漫才じゃありませんから!」
そしてアリスとクレオパトラの二人は反射的に声を揃えた。
「栞ね、きっと」
「え? 何、どういう事、クレオパトラ?」
「魑魅魍魎の封印よ、アリス。ものさしで封印出来るんなら、栞でだって封印出来るでしょ? ものさしも栞も似たような形をしてるんだから」
書物をどこまで読んだか覚えておく為にページの間に挟む栞はものさしと同じく長方形をしていた。
「いくら栞がものさしと同様に長方形で出来てるからって、栞とものさしじゃ使う目的が違うでしょ? 栞は長さを測る道具じゃないし」
「分かってないわね、アリス。ものさしだって栞代わりに使えるのよ。私、昔やってたし。家の書庫で書物を読んでる時、時々栞を無くしちゃって。仕方がないから手近にあったものさしを栞代わりにしてたわ」
「え?」
アリスが信じられないといった顔でクレオパトラをまじまじと見つめた。
「だから逆に言えばこう考えられるじゃない。栞だってものさしの代わりになるって」
「プププププ! 正解よ、クレオパトラ! 流石にものさしを栞代わりにするって発想はなかったけど。プププププ!」
「え? 正解なんですか、アッパレニウス前館長?」
アリスが唖然とした顔をアッパレニウスに向けた。
「その通りよ、アリス。栞をものさし代わりに使って魑魅魍魎を書物に封印してるってわけ。もちろんものさしで正確に長さを測って作られた特別製の栞を使う必要があるし、魔法陣も少しばかり特殊なのを使う必要はあるんだけどね」
「だからって書物に魑魅魍魎を封印出来るもんなんですか? 僕には未だに信じられない!」
「それはまだあんた達がジオメトリーの本質を理解してないからでしょうね」
「ジオメトリーの本質?」
アリスと同時にクレオパトラも声を出した。
「ジオメトリーは一般的に測量に関連する魔法の総称だって言われてるわね」
アッパレニウスの言葉に目の前の二人は大きく頷いた。
「じゃあ何で魑魅魍魎退治が観測者の専売特許なわけ? 公共工事ならともかく、魑魅魍魎退治に測量関連の魔法なんて必要だと思う?」
「そ、それは……」
言い淀むクレオパトラに対し、更に畳み掛けるようにアッパレニウスは言葉を続けた。
「魑魅魍魎退治なら、寧ろ騎士達が使うような戦闘関連の魔法の方が適してると思わない?」
するとアッパレニウスの言葉に怯むクレオパトラの隣で、アリスが大きく口を開いた。
「アッパレニウス前館長も聞いてましたよね? 僕が師匠から教わった話を」
「ああ、あんたがさっきクレオパトラに教えた話だね。私も聞いてたし、それ以前から知ってたけど」
「つまりそういう事ですよ。測量関連の魔法だからこそ、特異点である魑魅魍魎を特異点じゃなくす事が出来る。だから僕ら観測者だけが魑魅魍魎を退治出来るんです」
「でもアリス、あんたが言ってるのは魑魅魍魎を退治出来る原理の話だ。でも実際の魑魅魍魎は動き回って簡単にはその大きさをものさしで測らせてはくれない。ところが私達観測者はそんな魑魅魍魎の動きをうまく止める事が出来る。ものさしで測れる程度にね。これは戦闘の専門家の騎士達にすら出来ない芸当だ。私が言いたいのはね、アリス、測量関連の魔法であるジオメトリーが、何で魑魅魍魎の動きを止めるのに有効なのかって事」
「え? あ! それは……」
アリスもクレオパトラ同様絶句してしまった。
「私もそろそろ眠くなって来たし、さっさと答を教えちゃおうかね」
そう言いながらアッパレニウスは大きく欠伸をした。
「ジオメトリーの本質はね、空間の拘束なのよ」
「空間の拘束?」
二人の揃った声が再び真夜中の館内に響いた。
アッパレニウスは懐から二枚の栞を取り出すと、一枚ずつ両手に持ってひらひらと動かして見せた。
「この二つの栞だけど、形も大きさも同じだと思う?」
そして徐にそう尋ねた。
「同じ……だと思うわ」
クレオパトラが少し自信なさげに答えた。
「それをどうやって証明する?」
アッパレニウスは再び尋ねた。
「重ねてみれば分かりますよ、アッパレニウス前館長!」
今度はアリスが元気よく答えた。
「そう、正解! 重ねてみる。でもアリス、こう考えた事はない? 何故この二枚の栞は重ねる事が出来るのかって」
「え?」
そんな事を考える必要があるのか?
そう言いたげな表情をアリスはアッパレニウスに向けた。
「例えばこんな風にしてみたら?」
アッパレニウスは両腕を大きく広げ、手に持った二枚の栞を放り投げた。
栞はひらひら舞いながら床に落ちて行った。
「この落ちて行く二枚の栞は、とても一つに重なりそうにないじゃない? それでもこの二枚の栞は一つに重なると思う?」
「そ、それは」
一瞬戸惑ったものの、すぐさまアリスは床に落ちた栞を拾い、アッパレニウスの目の前で一つに重ねてみせた。
「ほら、こうやれば重なりますよ」
そう言いながらアリスはアッパレニウスに怪訝そうな目を向けた。いったい彼女が何を言いたいのかさっぱり分からなかったからだ。
「おやおや、確かにそうだね、アリス」
アッパレニウスはニヤリと笑った。
「つまり私達の今いるこの空間は、その二枚の栞に関しては重ねる事が出来るというわけね」
「重ねる事が出来るのはこの二枚の栞だけじゃないですよ」
そう言いながらアリスは懐から布切れを何枚か取り出し、重ねてみせた。
「確かにアリス、私達が今いるこの空間では、色んな物を重ねる事が出来る。って事はアリス、こう考えられない? 物を重ねる事が出来るっていうのは、私達が今いるこの空間が持っている性質だって」
「まあ……そうとも言えますね」
そんなの当たり前じゃないかと今にも言わんばかりの醒めた目を、アリスはアッパレニウスに向けた。
「じゃあ、重ねる事が出来るのはこの空間の持つ性質だから。そこまでは納得してもらえるって事ね?」
「ええ、まあ」
アッパレニウスの言う事が当たり前すぎて、彼女が何を言わんとしているのか皆目見当がつかないアリスは、じれったそうに返事をした。
「あんたはユークリッドの弟子だから、この事は既に聞いてると思うけど、結局、証明ってのは空間の性質に基づくものなのよ。例えばさっきの栞で言えば、この空間に重ねる事が出来るって性質があるから、形や大きさが同じかどうかを重ねる事で証明出来るってわけね」
「仰る通りアッパレニウス前館長、その事は師匠から耳にタコが出来るくらい十分に聞かされましたよ」
アリスはアッパレニウスの目の前で大袈裟にうんざりした顔をしてみせた。
そして実際アリスは、彼にとっては当たり前に思えるこの問答がいつまでも続く事に、正直うんざりしていたのである。
「それはそれはご愁傷様。でも、それなら話は早いわね。じゃあ、話を続けるわ。空間は公理、すなわちあるべき姿を要請される事によりその性質が規定される」
「それも師匠から何度も聞かされました」
「なるほどなるほど。流石ユークリッドってとこね。それならアリス、こう言えると思わない? 空間はその要請に拘束されているって」
「え? あっ!」
アリスは思わず叫び声を漏らした。
「その空間が要請されているあるべき姿って一体何なのか? それはつまり、その空間がいったい何によって拘束されているのかを知る事を意味する。そう言えない?」
「つ、つまり……」
「つまりアリス、それにクレオパトラ、ジオメトリーの本質っていうのは、その空間を拘束するものの正体が一体何なのか、それを探る事。そこから全てが始まるの。最初の一歩がね」
「じゃあ、アッパレニウス前館長……」
クレオパトラが躊躇いがちに口を開いた。
「もし世界を測るとしたら、その最初の一歩は、世界という空間を拘束しているものの正体を探る事になるって事かしら?」
「ご名答、クレオパトラ! 流石は王族一の英邁と謳われただけはあるわね。この世界という空間を拘束しているものが一体何なのか、それを探る事が世界を測る最初の一歩になるわ。そして今のこの世界はたった一人の王によって拘束されている。その足の大きさによってね。でも一人の王が世界を拘束出来る期間は高々数十年。王が代わる度に世界は拘束し直される事になる。それが八千年、八百六十八代に亘って延々と繰り返されているわ。まあユークリッドやエラソーナ・スッテンテンはそれに痺れを切らせて世界を測ろうとしてるんだけど」
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