世界を測れ

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世界を測れ

「アリス、点とは何だ?」  旅の途中、ユークリッドは弟子のアリス・タルタルにそう質問を投げかけた。 「点とは……」  師匠の不意な質問に、アリス・タルタルは暫く思案に暮れていた。  しかし突然、表情を明るくすると 「点とは、位置を持ち、しかしながら大きさを持たぬものです」  何かを思い出したかのように、元気良く答えた。 「そうだ、アリス。点とは位置を持つが、大きさは持たない。そして魑魅魍魎とは特異点。特異点故に、世界に様々な異変を引き起こす。だから俺ら観測者が、魑魅魍魎の大きさを測るんだ。特異点とは点の一種。つまり魑魅魍魎は点の一種だ。そんな魑魅魍魎の大きさを定義出来りゃあ、魑魅魍魎は大きさを持ち、大きさを持たぬもの、すなわち点じゃなくなる。そして点じゃなくなるって事は、特異点じゃなくなるって事だ。これが俺ら観測者だけが唯一、魑魅魍魎を封印できる理由だ」  そう言い放つと、ユークリッドは眼前に蠢く魑魅魍魎に向かってゆっくり歩き始めた。  長さの基準が世界を統べる王の足の大きさだった時代。  測量に関連する魔法は総称してジオメトリーと呼ばれていた。 「若者よ。お主の落とした斧はこの金の斧ではあるまいな?」  それはそれは美しい女神が、湖の中から突如姿を現した。彼女は両手に輝くばかりの黄金の斧を抱え、湖面を滑り歩くように青年の前までやって来た。 「残念ですが女神様、僕の落とした斧は鉄の斧です。と言うか、本当は落としたわけでもありません。わざと湖に放り投げたのです」  しかし青年は女神の出現にさして驚く様子もなく、平然と答えた。 「なるほど、やはりわざと投げたのだな。おかげで間一髪、頭に斧が刺さるところだったぞ」 「何を仰います、女神様。女神様の反射神経と水中で斧が抵抗を受ける事を考えれば、女神様の頭上から落下して来る斧など余裕で避けられるのではありませんか? と言うか、女神様ほどのお方であれば真剣白刃取りすらお茶の子さいさいなのでは?」  確かに青年の言う通り、女神の力を以ってすれば真剣白刃取りなど朝飯前に過ぎなかった。  何しろこの湖の周囲には堅く良質な大木が数多くそびえていた。そんな大木目当てに力自慢のきこり達が次々にやって来たのだが、彼らはしばしば手を滑らせ斧を湖に放り投げてしまっていた。故にこの湖を管理する女神は、度々降り注いで来る斧に対処出来ないようでは仕事にならなかったのだ。 「確かに若者よ、真剣白刃取りなど朝飯前の私にとって、お主の斧など余裕でキャッチ出来たのだが、何だか癪に障ってな。おかげで湖の更に奥深くにまで放り投げてしまったのだ。というわけで若者よ、今回はこの金の斧で手を打たぬか? ……ってか、お主今何と言った? わざと湖に放り投げたと聞こえたのだが?」 「仰る通りですよ、女神様。わざと湖に放り投げました。もちろん計算の上で」 「計算の上でだと?」 「そうなんですよ、女神様。ちゃんと斧の重量やら湖までの距離やらを考慮に入れて、初速と角度を割り出して放り投げたんです。そしたらドンピシャな場所に寸分の狂いも無く落下したって寸法です」 「おいこらお主! 自分が今何を言ってるのか分かっておるのか?」 「はい! 僕もとうとうここまでジオメトリーを使いこなす事が出来たってわけです。ああ! 今のこの僕の雄姿を師匠にも見せてあげたい!」  「はあ? 何を仰っているのだ、貴様は! と言うか、お主の師匠とやらがいるのなら、その顔を見てみたいものだ!」 「てか、師匠は女神様と会った事があるって言ってましたよ」 「私と会った事がある! かつて私と会った事のあるジオメトリーの使い手……はっ! まさか! お主の師匠とはあの……」 「ユークリッドです」 「やはりそうか! 大魔導士ユークリッド! あの大口叩きの観測者めがお主の師匠か!」  長さの基準が世界を統べる王の足の大きさだった時代。  測量に関連する魔法は総称してジオメトリーと呼ばれていた。  そしてジオメトリーの使い手は観測者と呼ばれていたのである。 「ユークリッドの弟子であれば、我が名も聞き及んでおろう?」 「もちろんですとも。女神エロメス・トリスメギストス」 「して、お主の名は?」 「アリス・タルタルと申します、女神様」 「アリス・タルタルとな。アリスとは、何ともおなごのような名だな。しかもロリコン好みの」 「良く言われます。しかもお前は容姿も中性的だとかって。余計なお世話だっての。おかげでごくたまに、背の高い女子小学生に間違えられる事があって。参っちゃいますよ、全く」 「そいつは難儀だな」 「いえいえ。ユークリッドの弟子である方がよっぽど難儀ですから」 「なるほど。そいつは道理だ」  微笑みながらそう述べると、女神エロメス・トリスメギストスは些か不思議そうな顔を浮かべ、こう続けた。 「しかしアリス・タルタルよ。ユークリッドの弟子のお主が、なぜこのような場所できこりの真似事を? ジオメトリーの使い手、観測者であれば、このような森で木を切らずとも、ある程度の規模の都市であれば食うに困る事もあるまい?」 「僕も出来ればどこかの大きな町で、観測者である事を鼻に掛けて楽して暮らそうと思っていたのですが、そうは問屋が卸してくれない事態になりまして。師匠が行方不明になっちゃいましてね。おまけに師匠のライバルを名乗る変なおっさんには追い掛けられる始末だし」 「何と! ユークリッドが行方知れずとな!」 「はい。半年ほど前、急に。置手紙だけ残して。手紙にはこれから世界を測るんでヨロシクとだけ書いてありました」  その言葉を聞いた女神エロメス・トリスメギストスは、何か思うところがあるかのように顎に手を置いた。 「そう言えば以前も言っておったな、ユークリッドの奴は。いつか世界を測ってやると……そのいつかが、ついに来たというわけか……」 「えっ? うちの師匠って、昔からそんな大それた事を言ってたんですか?」 「仰る通りだ、アリス・タルタルよ。まあ当時はいつも通りの大口だとしか思っていなかったのだがな。まさか本気で世界を測るつもりでいたとは」  女神エロメス・トリスメギストスは、遠くを見つめるような目で思い出話を語った。  「で、アリス・タルタルよ、お主はこれからどうするつもりなのだ?」 「先程も言った通り、師匠のライバルを名乗る変なおっさんに追い掛けられているおかげで、観測者として仕事にありつけられそうな大きな町に立ち寄るのが難しくなっちゃいまして。この半年間は小さな町とか人里離れた場所とかで、観測者とは関係なさそうな仕事で糊口を凌いでいた有様です。ここへ来たのも同じ理由です。師匠が女神様との思い出話をよくしてくれましてね。女神様と暫く過ごした湖の周囲の森には、高値で売れそうな木がそびえ立っていたって話してたのを思い出したんです」 「なるほど。つまりお主は観測者としてではなく、きこりとして食べて行く為にこの地へ来たというわけだな?」 「そう決心したはずなんですけど、駄目ですね。どうも観測者としての血が騒いでしまって。それで先程のような次第になったわけです」  女神エロメス・トリスメギストスは暫く押し黙って何事かを考えていたが、やがて 「まあお主も、あの男、ユークリッドの腐っても弟子、言わばカエルの子はカエルというわけだ。ならばこのような金の斧などお主に授けるのも野暮というもの。暫く待っておれ」  そう言い残すと、アリス・タルタルが手を伸ばして止めようとするのも眼中に無いかの如く、あっという間に湖の中へ戻ってしまった。  金の斧を手に入れ損ねて呆然とするアリス・タルタルの前に、やがて再び女神が現れた。その手に薄く細長い長方形の物体を持って。 「私はかつて、これと同じ物をお主の師ユークリッドに授けた」 「なんですか、これ?」 「ものさしだ。オリハルコン製のな」 「オリハルコンのものさし! そう言えば師匠から話には聞いた事がある。銀行の貸金庫に預けてあるとかで、実物は見せて貰えなかったけど」 「まあその実物だ。これをお主にも授けよう」 「いいんですか? 師匠が言うには、物凄く貴重な物だって話だけど」 「構わん。どうせこれを本来の意味で使いこなせるのは観測者のみ。私が持っていても単なる宝の持ち腐れだ」  そう言うと女神エロメス・トリスメギストスは、押し付けるようにオリハルコンのものさしをアリス・タルタルに手渡した。 「まあ、このオリハルコンのものさしなら、世界を測るという酔狂にも、いつか役立つ事があるだろう」 「そう言えば他のお偉い観測者達は、世界を測るなんて馬鹿も休み休み言えって良く言ってましたね。何故なんだろう?」 「この世界において長さの基準は王の足の大きさで事足りる。お偉い観測者達はそれ以上もそれ以下も望まぬのだろう」 「でも王様が代わっちゃえば基準となる足の大きさも変わっちゃいますよね。しかも王族の身長ってかなりバラツキがあるし」 「確かに歴代の王の中には非常に小柄な者もいれば巨人サイズの身長の者もいたな。そんな王の足の大きさが長さの基準となるのだから、そりゃ難儀もするわな」 「だいたい王様の平均在位期間だって十年いかないですからね。短い在位だと一年足らず。その間に長さの基準が普通の人間の足のサイズから巨人の足のサイズに変わったりするもんですから、そりゃもう世界も混乱しますよ」 「長い方だと在位五十年を超える王もいたな。あの頃は確か、世界の経済も大いに発展しておった。何しろ長さの基準が五十年にも亘って変わらなかったわけだからな」 「悲しいかな、そんな時代は滅多にやって来ませんからね。今のトレミー868世の治世だっていつまで続くかどうか」 「そう言えば風の噂に聞くな。トレミー868世の後継を巡るきな臭い噂を」  世界を統べる現在の王、トレミー868世には子がなかった。王家に直系の後継者がいない場合、七つの分家から後継者を選ぶのが現王朝が始まって以来のしきたりだった。トレミー868世の後継者を巡っては、巷でも様々な噂が飛び交っていた。 「世界を統べる現王朝が始まってからおよそ八千年。初代のトレミー1世から現トレミー868世まで八百六十八代を数える。そんな長きに亘る王朝だが、王の子が次代の王となった例は少ない。大抵の場合は七つの分家から新たな王を迎える事になる」 「後継者と目された王の子が、謎の死を遂げるなんて例も多かったみたいですね」 「王の子だけではない。王自身も暗殺によって非業の死を遂げる例も多かったと聞く」 「何かきな臭い話ですね。まあ庶民の僕には全く関係のない話ですけど」 「フッ、観測者が庶民とは片腹痛いが、まあそれは置いておいても、庶民には関係のない話とは言えんだろ? まして観測者にとってはなおさら。何しろ王が代わるのが早くなればなる程、長さの基準が変わるのも早くなってしまうのだからな」 「そこなんですよ女神様。だから師匠は王の足の大きさを長さの基準にするなんて事は止めて、悠久の時の中でもっと変化しにくい物を長さの基準にするべきだっていつも言ってたんですよ」 「そうだったな。あ奴は昔からそのような事を抜かしておった」 「だから師匠はこう提案したんです。世界の長さを一旦測り、その四千万分の一を長さの基準にしようと」 「世界の長さの四千万分の一を長さの基準にするだと?」 「はい。これによって人類は、王が代わる度に長さの基準が変わってしまうという呪縛から解放されると。更にはジオメトリーも王権という呪縛から解放出来ると」  ジオメトリーは測量に関連する魔法の総称。故に長さの基準がこれらの魔法の基準となる。王の足の大きさが長さの基準であるこの世界において、これはジオメトリーが王権に束縛されてしまう事を意味していた。 「ジオメトリーの、王権からの解放か……フッ、実にあの男らしい大口叩きだな」 「師匠は良く言ってました。ジオメトリーは王権を前提にしてはいけないと。前提とすべきは世界の本来あるべき姿、すなわち公理だと」 「王権ではなく、公理を前提とすべきか……フッ、おもしろい!」 「だからこそ、世界を測らなければならないと」 「フッ、あの大口叩きめ。おもしろい事を言ってくれるではないか! ならばアリス・タルタルよ。あ奴の弟子であるお主は如何にする?」 「え? 僕ですか?」 「他に誰がおる?」  しかしその時だった。突如、森の奥が騒がしくなった。 「まさかあれは!」  女神のその言葉にアリス・タルタルが後ろを振り向くと、森の奥で何本もの触手が蠢き、何名かのきこりを掴んでいる光景が目に入った。 「何で魑魅魍魎がこんな所に?」  女神同様、アリス・タルタルも信じられないといった表情でそう言葉を発した。  それもそのはずである。魑魅魍魎は通常、人々の多い大きな町にしか現れないからだ。 「パンドラの箱より解き放たれた魑魅魍魎は、人々のストレスに呼応する性質を持つが故に、人口の多い場所にしか現れぬはずなのだが」  魑魅魍魎。現実と仮想現実の狭間の存在。それはかつてパンドラの箱の中にのみ存在していた。 「しかしいい迷惑ですよね。パンドラの箱を開けちゃうとか。誰がやったのか知らないけど」 「大昔の話だ。誰も覚えていないくらいの。それに魑魅魍魎がおるからこそ、お主ら観測者も食うに困らぬのであろう?」 「まあ確かにそうなんですけど」  そう言って魔法陣を仕掛けようとするアリス・タルタルに対し 「物の試しだ。どうせならそのオリハルコンのものさしを使ってみよ」  女神はそう言い放った。 「で、女神様はどうするんですか?」 「私か? 私はそうだな。ここで高みの見物と行くか」 「えー! 手伝ってくれないんですか。あの魑魅魍魎、今までのに比べてもでかくてヤバそうだから、女神様の手助けを期待してたのに!」 「フッ、私が出来る事など、せいぜいあの魑魅魍魎を抑え込む事ぐらい。パンドラの箱への封印は観測者でなければ出来ぬ」  女神の言う通り、現実と仮想現実の狭間の存在である魑魅魍魎は、観測者がその存在を測る事によってのみ、パンドラの箱へ封印する事が出来た。故に観測者は、魑魅魍魎がしばしば出現する大きな町では、食うに困らなかったのである。 「それはそうなんですけど……師匠の言う通り、人使いの荒い女神様だなあ」  そうぶつくさ文句を言いながらも、アリス・タルタルは魑魅魍魎へ向かって歩いて行った。 「そのオリハルコンのものさしであれば、あのような魑魅魍魎でさえ容易く封印出来るであろう。何しろそのオリハルコンのものさしは、世界をも測れるものさしなのだからな」  女神の言葉を背に受け、アリス・タルタルは更に歩を早めた。 「魔導士アリス・タルタル。観測者の名において、貴様を測る!」  アリス・タルタルはそう叫びながら、片手にオリハルコンのものさしを掲げ、魔法陣を展開した。  グワッァ。そう叫びながら魑魅魍魎は触手に掴んだきこり達を放り出すと、魔法陣の光に包まれ何処かへと消えて行った。 「しかし解せぬ話だな。このような所にまで魑魅魍魎が現れるとは。……あるいはもしや、世界の歪みが……」 「はい?」 「いや、何でもない。それより先程の続きだ。お主は如何にする、アリス・タルタルよ?」 「は~、僕ですか。何か気が進まないけど、やっぱやるしかないんでしょうね。何か気が進まないけど」 「フッ、気が進まぬか。しかしユークリッドの話をしている時のお主の目はキラキラ輝いておったがな。かつて大口を叩いておった頃のあの男の目とそっくりだった」 「えぇ~!」 「お主も、もう決心はついておるのだろう? それともこの女神に背中を押して欲しいと申すか?」 「出来れば」 「仕方ないなあ。ではアリス・タルタルよ。女神エロメス・トリスメギストスが命ず。世界を測れ!」 「かしこまりました、女神様!」  長さの基準が世界を統べる王の足の大きさだった時代。  測量に関連する魔法は総称してジオメトリーと呼ばれていた。  そしてジオメトリーの使い手は観測者と呼ばれ、パンドラの箱から解き放たれた魑魅魍魎を唯一封印出来る存在でもあった。  時にトレミー868世の治世。数多の観測者が王の足の大きさが長さの基準である事に満足する中、世界を測ろうとする者達が現れた。世界のものさしを、王の足から解放する為に。しかしそれは前途多難な道。果たして世界は、測れるのだろうか。そして世界を測るとは、一体どういう事なのだろうか。
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