図書館の幽霊

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図書館の幽霊

「しかし参ったな。眼が冴えて眠れやしない」 「昼寝し過ぎるからでしょ。まあ私も、人のことは言えないけど」 「昼寝って言っても、寝たのは夕方近かったからね。だから余計、夜中に目が冴えちゃうんだよ」  大図書館に到着したその日、アリスとクレオパトラの二人は真夜中にも拘わらず宿舎を出て、館内で文献の調査を開始した。  ここ暫く魑魅魍魎が現れなくなり、魑魅魍魎退治で生計を立てる事が難しくなった二人は、その原因を調べる為、古今東西の知識が集まるこの大図書館へやって来たのだった。  八千年に亘り世界中からあらゆる知識を集めたこの大図書館なら、その答が必ず見付かるはずだと信じて。 「これだけ大量の書物があるんだから、読んでるうちに否が応でも眠くなるわよ」 「それはそれで困るんだけどね」  図書館の受付でランプを借りた二人は、その灯りを頼りに書架を探索していた。  八千年前にトレミー1世によって設立されて以来、大図書館は日中の開館時間内であれば誰でも利用できた。  一方、大図書館は観測者ギルドであるムセイオンの総本山でもあった。  この為、観測者は閉館時間中でも利用できる特典が与えられていた。 「しかし何て言うか、夜の図書館ってなんだか不気味だよね」  尤も、真夜中の図書館を利用する観測者は少ない。  闇夜の遥か彼方にまで書架の並ぶこの広大な建物内を、僅かな灯りを頼りに調べて回るのは、まるで迷宮を探索するようなものだった。  魑魅魍魎退治の専門家である観測者とて、その闇の先に何か得体の知れないものが待ち構えているような錯覚にしばしば陥る。  無論、闇に蠢くものが魑魅魍魎なら、観測者にとって何ら恐れる事はないだろう。  しかし観測者も人の子。  恐怖を感じずに済むのは、自らが対処可能な存在だけだ。  それが自分達には手も足も出ない、未知の何かだったら。  そう、例えば、幽霊だったら。  魑魅魍魎退治の専門家にして学術の徒でもある観測者も、意外な事に幽霊を怖がる者は多い。  そもそも幽霊など都市伝説の域を出ない存在ではないか。  何をそんなに恐れる事があるのか。  そう豪語する者はいる。  そもそも観測者は人々を恐怖のどん底に陥れる魑魅魍魎をも鮮やかに退治できるではないか。  そんな観測者がなぜ幽霊如きを恐れるのか。  そう疑問を口にする者もいる。  しかしその者達は知らないだけだ。  未知ゆえの恐怖というものを。  観測者にとって魑魅魍魎は測る事で退治可能な既知の存在。  しかし幽霊は違う。  幽霊に対してどう対処していいのかすら、観測者には分からない。  そもそも本当に存在するのかすら分からない、観測者にとって、全く守備範囲外の未知の存在。  それが幽霊なのである。  無論、魑魅魍魎も、現実と仮想現実の狭間の存在、すなわち存在するとも存在しないとも言えない存在である。  その意味では魑魅魍魎も幽霊も大して変わらないように思える。  しかしこの二者には決定的な違いが二つあった。  一つはその実害である。  多くの人々が魑魅魍魎の実害に遭い、それを目撃し、公式に記録されていた。  しかし幽霊についてのそれは、全て噂に過ぎない。  公式記録のどこにもその被害は記されていなかった。  もう一つは、魑魅魍魎は観測者がその大きさを測る事でその存在を確定出来た事である。  しかし幽霊にいたっては、いったい何を測れば良いのだろう。  何しろ公式記録にさえ現れない存在なのだから。  例え何かを測れたとしても、それで幽霊に対処できるのか。  観測者には全く見当も付かなかった。  だから観測者は幽霊を恐れた。  観測者にとって幽霊は全く非論理的な存在だったのである。  観測者にとって一番ありがたいのは、幽霊はこの世に存在しないと証明される事だったが、その為には世界中から幽霊と疑われる者を全て集めて来て、片っ端から幽霊ではないと証明する必要があった。  これは事実上不可能な証明だった。  だから観測者に精々できる事は、幽霊と出来るだけ関わらない事だった。  そして幽霊と出来るだけ関わらない一番の近道は、幽霊が出そうな場所に近寄らない事である。  例えば真夜中の図書館のような場所。  故にこの大図書館は閉館中の真夜中も観測者に対しては開放されているにも拘らず、その利用は極めて少なかった。 「あら、ちょっとびびってるの、アリス君?」 「べ、べつにびびってるわけじゃ……」  そう言いながらも少しばかり肩を竦めて歩くアリスを横目でチラッと見ると 「おっほっほ!」  クレオパトラはそう高笑いしながら、書架の奥を照らすようにランプを片手に掲げ、アリスの前を颯爽と歩いた。 「ちょっと待ってよ、クレオパトラ!」  そう言いながら、アリスは遅れまいとクレオパトラの後を必死に追い掛けた。  しかしその途端…… 「ケケケケケ!」  書架の更に奥から不気味な笑い声が聞こえた。と同時に妖しい影が二人の前方を瞬く間に通り過ぎた。 「きゃっ!」  そしてクレオパトラはすぐさまアリスの後ろに隠れた。 「えーと、クレオパトラさん?」 「い、いや、アリスの背中って、なんとなく居心地がいいから。べ、べつにびびったわけじゃないわよ」  後を振り返り自分の顔をまじまじと見るアリスの視線を気まずそうに外すと、クレオパトラはアリスの肩越しに書架の奥に目を遣った。  八千年に亘り世界中からありとあらゆる知識を集めた大図書館はとてつもなく広い。  その書架は、昼間であればまるで地平線の彼方にまで広がっているかのような錯覚を覚えるほどだった。  そして夜ともなれば、まるで暗黒の海の彼方にまで続いているかのように、整列された迷宮が僅かな灯りに照らし出されていた。  アリスもクレオパトラの視線に誘導されるように迷宮の彼方に目を遣ると、そこには…… 「ケケケケケ!」  不気味ないくつもの影が上下左右に蠢いていた。 「ク、クレオパトラ、う、後ろにいるよね?」 「ちゃ、ちゃんといるわよ、アリス」 「こ、この際だから言うけど、幽霊を見るのは生まれて初めてなんだ」 「き、奇遇ね。わ、私も生まれて初めて」 「な、なんだか幽霊って、魑魅魍魎に似てるよね」 「そ、そうね。魑魅魍魎に似てるわね……って!」  クレオパトラは急に驚いたような声を出した。 「ど、どうしたの、クレオパトラ?」 「だってアリス、あれどう見たって……」 「どう見たって?」  そう言いながらアリスは前方の蠢く影に目を凝らした。 「え? あれもしかして?」 「そうよ。もしかしてよ!」 「魑魅魍魎!」  同時に二人の口から出たその言葉が、真夜中の書架に響いた。 「ケケケケケ!」 「あれが幽霊じゃなくて魑魅魍魎なら」  そう言いながらアリスは腰の巾着袋からオリハルコンのものさしを取り出した。 「確かに幽霊じゃなかったのはちょっと残念だけど」  そう言いながらクレオパトラもオリハルコンのものさしを取り出した。  二人同時に魔法陣を展開すると、オリハルコンのものさしで魑魅魍魎を測り、パンドラの箱へ封印した。  しかしその直後だった。  怪しい影が再び二人の前方を横切った。 「えっ! 魑魅魍魎は封印したはずなのに!」  オリハルコンのものさしを太ももに取り付けたホルダーにしまいかけていたクレオパトラは思わずそう叫び、再びものさしを目の前に掲げた。  アリスは一旦足元に置いたランプを手に取り、書架の奥を照らすよう高く掲げた。  その途端、クレオパトラが青ざめた顔で再びアリスの背後に隠れた。 「あ、あれって、その……流石に魑魅魍魎じゃないよね?」  アリスは背後のクレオパトラに、殆ど声にならないような小さな声で尋ねた。 「わ、私の知る限り、少なくともあれは魑魅魍魎じゃないわ……」 「じゃあ、あれってやっぱり!」 「ゴクリ」  クレオパトラは唾を呑み込むと同時に、一目散に後方へ走り出した。 「ちょ、ちょっとクレオパトラ! 僕を置いて行かないでよ!」  そう叫びながらアリスは急いで彼女の後を追った。 「ケケケケケ!」  後方からまるで二人を追い掛けるように声が迫って来た。 「ちょ、ちょっと、クレオパトラ、待ってよ! 確か君、幽霊の存在を証明したがってたよね?」 「そ、それについてはアリス、その栄誉をあなたに譲るわ」 「い、いや、それは結構だから。僕は君がその栄誉に与る事を心から祝福するつもりだから」 「そ、それはありがとう、アリス。でもやっぱりこの栄誉はあなたに譲るわ」  そうこうしているうちに、背後の不気味な声は突然途絶えた。  二人が恐る恐る後方を振り返ると、そこには怪しい影など何も見当たらず、闇夜の中で書架が遥か先まで続いているだけだった。  アリスとクレオパトラの二人は神妙な面持ちで横に並ぶと、互いの顔を見合わせた。  そしてすぐさま背後、すなわち先ほどまで逃げていた方向へ同時に振り向いた。 「ケケケケケ!」  怪しい影はいつの間にか二人を追い越し、彼らの前方に立ち塞がっていた。 「きゃっ!」  慌ててクレオパトラはアリスの背後に隠れた。 「ちょ、ちょっとクレオパトラさん! 僕が幽霊苦手なの知ってるでしょ!」  そう言いながらアリスは強引にクレオパトラの背後に回った。 「あら、そうだったかしら? でも知ってる、アリス? 私の方があなたよりもっと幽霊が苦手だって事」  そう言いながらクレオパトラは、まるで猫のような俊敏な身のこなしでアリスの背後に回った。 「あれ、そうだったっけ? 僕はさっき、君が幽霊の存在を証明したいって言ってたような気がするけど。あれって僕の空耳だったのかな?」  そう言いながらアリスは、彼の肩を強く掴み、後ろに回りこさせまいとするクレオパトラの手の甲をくすぐり、彼女の握力が一瞬緩んだ隙を突いて彼女の背後に回った。 「そ、それはきっと、そこの幽霊が私の声色を真似て言ったに違いないわ。こ、この幽霊が苦手な私が言うわけないじゃない」  そう言いながらクレオパトラは、先程の彼女と同じように彼女の肩を強く掴むアリスの両手の甲に交互に息を吹きかけ、力が緩んだ隙に身を捩って彼の背後に回った。 「でもクレオパトラ、君は僕より五年長く生きてるんだから、君の方が幽霊の対処は詳しいはずだよね」  そう言ってアリスはまたすぐさまクレオパトラの背後に回った。 「でも私は都会育ちのシティガールだし。知ってる、アリス? 都会って田舎と違ってなかなか幽霊は出ないらしいわ。だからここは田舎育ちのアリスの方が、幽霊には詳しいはずよ」  そしてクレオパトラは間髪入れずにアリスの背後に回った。 「でもクレオパトラさんは、ついこの間まで、三年も田舎暮らししてたんだよね。だったら君は、もはやシティガールの面影なんて何もない、キングオブ田舎者だと言っても過言じゃないと僕は思うよ。だからやっぱりここは、クレオパトラさんにお任せし方がいいよね。幽霊のスペシャリストとして」  そしてアリスも負けじとクレオパトラの背後に回り、その背中をぐいと押した。 「ちょっとアリス! そもそも私は王都の花と謳われたお姫様よ。そんな可憐なお姫様を身を挺して幽霊から守ろうなんて思わないの?」  後方に目を遣りながらクレオパトラは叫んだ。 「全く以ってこれっぽっちも。それより僕は、王族一の英邁と謳われた君に幽霊から守って貰える事を、心から光栄だと思うよ」  そう言いながらアリスは、クレオパトラの背中を押す腕に更に力を込めた。 「お生憎さま。王族一の英邁と謳われたのは過去の話よ。そして私は過去を引きずらない女なの」  しかしアリスが腕を伸ばした先にあったはずのクレオパトラの背中が急に消え、彼の手は何もない空間を掴もうとするかのように彷徨っていた。  クレオパトラはいつの間にかアリスの背後に回り、彼の肩をしっかり掴んでいた。 「ね、ねえ、クレオパトラさん。今度、鰻の蒲焼ごちそうするからさ、その手、放してくれない?」 「あら、無理しなくていいのよ、アリス君。お金だって殆ど残ってないんでしょ?」 「どっちかって言うと、今の方が無理してるんですけど」  そう言いながら、アリスは足をガクガクと震わせていた。 「私としても可愛いアリス君を本当なら守ってあげたいんだけど……ごめん、今は無理!」  そう言ってクレオパトラも足をガクガク震わせていた。 「それ、いつまで続けるの?」  突然、思わぬ所から声が発せられた。
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