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大図書館の秘密
「それ、いつまで続けるの?」
その思わぬ問い掛けにアリスとクレオパトラは表情を硬直させながら、腰まで届きそうな長い前髪を垂らした声の主に恐る恐る視線を向けた。
「ね、ねえ、クレオパトラ。幽霊ってしゃべるの?」
「しゃべる幽霊もいるって、噂には聞いた事があるわ」
「じゃ、じゃああれは、しゃべる幽霊なんだね、きっと」
「そ、そのようね」
二人は顔を見合わせ、頷き合った。
「あんた達、さっきから何か勘違いしているようだけど」
腰まで届きそうな長く分厚い前髪の向こうから、再び声が漏れた。
その姿は、二人の視界を先程より大きく占領していた。
「巨、巨大化してる!」
驚きの声と共に後ずさりするクレオパトラ。
アリスも慌てて彼女を追い掛けた。
そして彼女の横で再び前方を振り返った瞬間。
「あれ、え、もしかして?」
何かに気付いたかのような声を発した。
「え? どうしたの、アリス?」
「幽霊じゃないんじゃ?」
「え? 幽霊じゃない? 嘘よ。どこからどう見ても幽霊でしょ。私達の目の前で大きくなったり小さくなったりしてるのよ」
「いや、だから、それは……」
そう言い掛けたアリスを遮るようにクレオパトラは続けた。
「言いたい事は分かるわ、アリス。幽霊じゃなくても、魑魅魍魎なら大きくなったり小さくなったり出来るって。だから目の前のあの者は魑魅魍魎かも知れないって言いたいんでしょ? でもね、アリス、幽霊と魑魅魍魎には決定的な違いがあるの。それは魑魅魍魎は服を着てないって事よ!」
確かに二人の目の前にいる者は足元まで隠れるような長いガウンを身に着けていた。故に魑魅魍魎でない事は明らかだった。
「まずクレオパトラ、一つ目の勘違いだけど、あの者は大きくなったり小さくなったりしたわけじゃないから。単にあの者は僕らに近づいたり僕らがあの者から遠ざかったりしたから、あの者が大きくなったり小さくなったりしたみたいに見えただけだから」
「え? うそ?」
「こんな真夜中の暗い図書館の中じゃ、相手との距離感も掴みにくいからね。錯覚するのも無理はないよ。だいたい僕らは冷静さも欠いてたし」
「なるほど。あの者が大きくなったり小さくなったりしたように見えたのは、単なる錯覚だったってのは、確かに一理あるわ。距離の変化を見誤って勘違いしちゃうってのは、観測者としてはちょっと恥ずかしい事だけど。まあそれはさておいて、あの者が服を着てる事実は錯覚じゃ説明できないわ。アリス、あなたはこの事実をどう説明するつもり?」
「確かに魑魅魍魎と違って幽霊は服を身に着けている。今まで実際に見た事はなかったけど、噂話では確かにその通りだよ、クレオパトラ。でも……」
「でも、何よ、アリス。あなたまさか、服を着た魑魅魍魎もいるかもって思ってるの? 確かに、私達が知らないだけで、服を着た魑魅魍魎もいるかも知れないわ。そして魑魅魍魎なら幽霊と違って私達でも退治出来る。でもね、アリス、あなた大事な事を忘れてるわ。それは、例え服を着た魑魅魍魎がいたとしても、言葉を話す魑魅魍魎はいないって事。そして目の前のあの者は私達に向かって話し掛けたわ。それも二度も。それが意味する事は、つまりあの者は魑魅魍魎じゃないって事よ。という事は、幽霊以外に考えられないじゃない」
「いや、クレオパトラ。そこが僕らの大きな勘違いさ。だってよく考えてみてよ。服を着て、言葉を話すのは幽霊だけだと思う?」
「え? 幽霊以外に何がいるっていうの? ……って、あっ!」
漸く何かに気付いたかのように、クレオパトラが叫び声を上げた。
「そう言えば、妖精がいたわ!」
「いや、そもそも妖精って物語にしか出て来ない架空の存在でしょ?」
「分かってないわね、アリス。そもそも幽霊が存在するんなら、妖精が存在したっておかしくないじゃない」
「いや、だからそうじゃなくて」
「そうじゃなくて何よ。まさかアリス、幽霊でも妖精でもなくて、服を着てしゃべる何者かがこの世に存在するとでも。そんな噂、都市伝説でも聞いた事ないんだけど。それとも何? 私が田舎者で何も知らないとでも?」
「いや、だからクレオパトラ、僕らは大きな勘違いをしてたんだってば。服を着てしゃべる幽霊でも妖精でもない者がこの世には存在するでしょ? しかも君の良くご存知の」
「あっ! しゃべるカラクリ人形があった! 王族や貴族達の間で人気があったのよね。社交パーティーの場でよくお披露目されてたわ。三年の田舎暮らしのおかげですっかり忘れちゃってた! 王都の花と謳われたシティガールの私とした事が、これはこれは誠に面目ない」
「はあ、さいですか」
もはや返す言葉もないといった具合のげんなりした口調で、アリスは溜息まじりに答えた。
「そこの君、この人、いつまでこの調子で続けるつもり?」
「さあ、僕にもさっぱり分かりません」
まるで匙を投げたかのように、アリスは掌を上に向けながら両腕を放り出した。
「えっ? あなた、人間なの?」
足元まで隠れるような長いガウンを着た、腰まで届きそうな長い前髪で顔がほぼ隠れている目の前の人物に向かって、クレオパトラが驚きの声を上げた。
「前髪を留めてたヘアピンを、ついうっかり放り投げちゃってね」
そう言いながら目の前の人物は長い前髪をかき集め頭の後ろで一本に纏めると、無造作に紐で縛った。
二人の目の前には一人の人間の女性がいた。
年の頃は五十代半ばといった風貌だった。
そして二人は大声を上げた。
「アッパレニウス!」
それは観測者なら誰もが知る人物、ワレコランドリア大図書館の前館長の名だった。
「五年前に館長引退してからは、ずっと嘱託で働いてるんだけどね」
二人の驚く様子すら意に介さないマイペースな口振りで、彼女は二人に話し掛けた。
「前館長が嘱託で働いているのは分かるとして、どうして幽霊の真似事なんか?」
アリスは怪訝な顔で疑問を投げ掛けた。
「そうよ! いくら前館長だからって、やっていい事と悪い事があるわ! お陰で思いっ切り肝を冷やしちゃったじゃない!」
そんなクレオパトラの剣幕にすら全くたじろぐ様子もなく、アッパレニウスはまるで眠そうに口を開いた。
「ああ、あれね。別に驚かせるつもりは無かったんだけど。ちょっとヘアピンを探してて」
「ヘアピンを? そう言えばさっき、ヘアピンをうっかり放り投げたとか言ってたわね」
アッパレニウスの言葉を遮るようにクレオパトラは口を挟んだ。
「怪しげな物音がしたものだから、ヘアピンを外してそこへ投げたんだけど、慣れない事はやるもんじゃないわ」
アッパレニウスは溜息まじりに答えた。
「ってか、何でヘアピンなんて投げたんですか? 怪しい物音がしたからって、観測者なら普通ものさしとか武器にするもんでしょ?」
アリスの言う通りとでも言いたげに、クレオパトラは隣でうんうんと大きく頷いた。
「いやあ、このあいだ見た演劇でね。主人公を助ける女性の用心棒が、迫り来る敵をヘアピンを投げて次々になぎ倒して行くシーンが印象に残ってて。私もつい真似してやってみたくなっちゃって」
アリスが呆れた顔で自分を見つめるのもお構いなしに、アッパレニウスは興奮気味に語った。
「真似してやってみて初めて分かったわ。ヘアピンが髪の毛を留めるのにどれだけ便利かって。何しろ前髪が視界を遮って鬱陶しいったらありゃしないわ」
「それでむしゃくしゃしてあんな不気味な声を出してたって事? おかげでこっちはあなたの事、幽霊だって勘違いしちゃったんだけど」
もはや目の前の人物が大図書館の前館長である事も忘れたかのように、クレオパトラは呆れ顔で彼女に詰め寄った。
「不気味な声? 私はただ目の前の髪の毛が邪魔で、毛、毛、毛……って言ってただけなんだけど」
ケケケケケ! の不気味な声は、単に彼女が目の前の邪魔な髪の毛を指して毛、毛、毛……と呟いていただけだった。
「それじゃあ、私達を追い掛けて来たのはなぜ?」
「別に追い掛けたわけじゃないわ。投げたヘアピンを拾おうとしただけ。多分、この辺りの床に落ちてるはずだから。そしたらあんた達が私が行こうとしてる方向に走って行くもんだから。大事なヘアピン踏んづけられたらまずいと思って、先回りしたら、急にあんた達が夫婦漫才やり始めて」
「いや、夫婦漫才じゃないから!」
アリスとクレオパトラが二人揃って叫んだ。
「それにしてもアッパレニウス前館長はこんな真夜中に一体何を?」
アリスが話題を変えるかのように彼女に尋ねた。
「今あんたが本当に知りたいのはその事?」
アッパレニウスがアリスの顔をまじまじと見つめながら逆に尋ねた。
「え? いや、ちょっとした好奇心から、気になっただけで……」
ベテラン観測者達から生意気なガキだと言われる事も多い、目上の者にもあまり物怖じしないアリスであったが、そんなアリスでさえ彼女の鋭い眼光、あるいはその口から発せられる言葉の迫力に、一瞬、たじろいだ。
「好奇心は大事だね。何事も、たぶんそれが初めの一歩だから。しかしあんたは観測者だ。なら、そこからもう一歩踏み出して考えてみる事も大事じゃない?」
「え? どういう事?」
彼女がアリスに向けた眼光を遮るように、クレオパトラが口を挟んだ。
「例えば、この大図書館が何の為に建てられたのかとか、あんた達は知りたいと思わない?」
アッパレニウスのその言葉に二人は顔を見合わせた。
八千年に亘り世界中からありとあらゆる知識を集め、またジオメトリーの総本山としての役割も担う大図書館は、観測者にとって当たり前のような存在だった。だから多くの観測者達はその存在意義に疑問を持つ事も無かったのである。
「まあ、殆どの観測者は保守的だから、そんな事すら疑問に思わないのも仕方ないか」
そう言いながらアッパレニウスは溜息を吐いた。
「そう言えばアッパレニウス前館長って改革派だったわね。確かエラソーナ・スッテンテンの推薦で暫定館長になって、そのまま信任受けたんでしょ?」
王の足の大きさが長さの基準であるこの世界において、その現状に満足している観測者は保守派、そうでない観測者は改革派と呼ばれていた。
例えばユークリッドや彼と双璧をなす大観測者エラソーナ・スッテンテンは、改革派の代表格だった。
またエラソーナ・スッテンテンは、アッパレニウスの前の大図書館の館長でもあった。
「僕は未だにあのおっさんがこの大図書館の館長だったなんて信じられないんだけど」
アリスが思い出すのもうんざりだといった表情で語った。
「まあ、あの人は三日で辞めちゃったし」
クレオパトラが肩を竦めながらそう答えた。
「そう言えばクレオパトラ、君とあのおっさんって結構親しいの?」
「まあ、ちょっとした腐れ縁って奴ね。かれこれ十数年来の付き合いになるかしら」
「うえっ! そんなに! 僕は思い出すだけでうんざりするってのに。って、もしかして、君のジオメトリーの師匠ってあのおっさん?」
「いいえ。ジオメトリーの師匠は別にいるわ。まあ、あの人は別の意味で師匠みたいなものだけど」
そう言ってクレオパトラは妖しく微笑んだ。
「話は横に逸れちゃったけど、アッパレニウス前館長、あなたもユークリッドやエラソーナ・スッテンテンみたいに世界を測ろうと?」
「ふむ、今度はなかなかいい質問ね。残念ながら、私の現時点での興味は世界を測る事じゃないけどね」
そう言ってアッパレニウスはにっこり微笑んだ。
「あっ!」
アリスが突然、大声を上げた。
その瞳は、大図書館前館長アッパレニウスの背後の闇に向かって、大きく見開かれていた。
「何、アリス? また向こうに何か現れたの?」
「いや、違う! そうじゃなくて! 大事な事を思い出した!」
「大事な事?」
「そうだよ! そもそも僕らがここへ来た理由でもある!」
「ここへ来た理由? それって、最近、魑魅魍魎が現れなくなって商売上がったりだから、過去に同じような事例がなかったか調べて、対策を考える為でしょ」
「その通りさ、クレオパトラ。ところが僕達はよりによって……」
「よりによって何よ、アリス」
「よりによって僕達はここで魑魅魍魎に出くわしたじゃない」
「あっ! 言われてみればそうね。すっかり忘れてたけど」
「そこが肝心な事さ。今まで現れなかった魑魅魍魎が、何で今更ここに現れたんだろう?」
「例えば魑魅魍魎が暫く現れていなかったのは、私達が以前にいた町の周辺だけだったのかも知れないわ」
「それはないよ、クレオパトラ。だって昼に立ち寄った王都の鰻屋でも他の客達が噂してたじゃない。ここ最近魑魅魍魎が現れてないって」
「そうだったかしら。私は蒲焼食べるのに夢中で、全然聞いてなかったけど」
アリスはやれやれと溜息を吐くと、再び話を続けた。
「大事な事は、もし魑魅魍魎がいつも通り現れているのなら、ここで魑魅魍魎に出くわしたって何も不思議じゃないって事さ。ところが今や、この王都でも魑魅魍魎は暫く現れていないと来てる」
「にも拘らず、今日ここで魑魅魍魎に出くわしたと。これには何か重大な秘密がありそうね」
「ふむ、ふむ、それはなかなか興味深い!」
暫く眠そうな顔でアリスとクレオパトラの遣り取りを聞いていたアッパレニウスが、一転して急に眼を輝かせながら口を開いた。
果てしなく書架の立ち並ぶ真夜中の図書館に響く張りのある声に、アリスとクレオパトラは驚いたように顔を見合わせた。
「もしかして、アッパレニウス前館長も、ここ暫く魑魅魍魎が現れていない現象に関心が?」
一瞬気後れしたアリスだったが、再び気を取り直すと、アッパレニウスに向かって興味深そうに尋ねた。
しかし彼女は再び眠そうな顔をしてこう言った。
「その噂は知ってるけど、私はその現象に関しては残念ながらあまり興味はないよ」
「え? だって今、興味深いって」
「ああ、私が興味深いって言ったのは、こちらの彼女の、ここで魑魅魍魎に出くわしたのには何か重大な秘密がありそうって言葉に対してよ」
「え?」
言ってる意味が良く分からない……
そんな表情でアリスは暫く絶句していた。
しかしその後、急に顔色を変えると、喉の奥から絞り出すように声を発し始めた。
「つ、つまりさっきの魑魅魍魎出現は……」
そう言葉を口に出すと、まるで喉のつかえが取れたかのように饒舌に言葉が続いた。
「ここ暫くの魑魅魍魎が現れない現象とは全く関係のない、別の現象って事ですか? そして前館長、あなたはそう言い切れるだけの、さっきの魑魅魍魎出現に関する何らかの秘密を知っていると?」
「ご名答! 流石はユークリッドの弟子ね、アリス・タルタル君」
「え? 僕の名前をご存知なんですか、アッパレニウス前館長?」
「こちらの彼女がクレオパトラ姫だって事もね。まあ私には特に興味がある事柄でもなかったから、敢えて口にする事もなかったけど」
ワレコランドリア大図書館前館長アッパレニウスが、相変わらず我が道を行くようなのんびりした口調で答えた。
「そう言えば君達は聞いてる? この大図書館がパンドラの箱を模して造られたって事を?」
アリスとクレオパトラは再び驚いたように顔を見合わせると、同時に首を横に振った。
「じゃあこれも聞いてないかな? この大図書館にあるいくつかの書物には、魑魅魍魎が封印されているって」
二人は同時に絶句すると、全く同じタイミングで声を発した。
「え?」
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