第三話、ラストなの、と「赤ちゃんを、返してくださるかしら」

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その三  ネズミは腰を抜かしたまま涙と鼻水を垂れ流し、ウシは金縛りにあったかのように硬直したまま、般若心経を唱え続けている。    豪雨が窓や屋根を叩く音、稲妻と落雷の轟音、稲光の明滅。  視覚と聴覚を支配され、さらに天井から覗く怖気の走る血走った目、泣いているのか呻いているのかわからぬ声。  男二人の精神は、限界点であった。  ドンドンドンッ!   ドンドンドンッ!  突然激しく玄関を叩く音に、ネズミとウシは震えあがった。  こんな豪雨に雷が鳴り響く中、いったい誰が訪ねてきたというのだ。  本部からの人間ではない。  それなら前もって、必ず連絡があるからだ。  ドンドンドンッ!   ドンドンドンッ!  ノックというよりも、拳で合板のドアを突き破るような叩き方だ。 「か、鍵は、鍵は!」  ネズミは泣き顔のまま、ウシに叫ぶ。 「だ、大丈夫っす!  お、俺がきっちりこう、きっちりこい、きっちりなう!」  ウシはもはや自分で何を言っているのかさえ、分からなくなっていた。  ドアを叩く音が止んだ。  ネズミは金縛りには、合っていなかった。  グイッと奥歯を噛みしめ、力の入らない腰を自ら殴りつけて立ち上がる。  天井から目を離したとたん、ふっと身体が軽くなった。  呪縛が解かれたようだ。  宇宙遊泳するような格好で、まず玄関横にあるトイレに入る。  用を足したいわけではない。  用ならすでに和室において、知らぬ間に垂れ流していたので、意外とスッキリしている。  さきほどウシが隠した拳銃を取りに寄ったのだ。  役に立つ相手かどうかはわからない。  それでも手元に武器があるだけで、心に余裕が生まれる。  油紙に包まれたトカレフを一丁取り出し、玄関ドアを確認する。  昔ながらの、内側のドアノブ中央にあるボタンを押すタイプの鍵だ。  いまどきこんな施錠の家などない。  確かにボタンキーは押されている。  だがネズミは、チェーンロックされていないことに気づいた。  カッ、と曇りガラスが稲光によって鈍く輝いた。  ネズミの目は、その曇りガラスを通り過ぎる黒い影に釘付けになった。  正体不明の来訪者が、舞い戻って来たのだ。 「あわわっ」  ドンドンドンッ!   合板の玄関がまたもや叩かれる。 「ヒキッ」  ネズミはあわててチェーンロックをすべく、鎖を引っ張った。  暗いのと手が震えているのとで、なかなかチェーンの先が引っかかってくれない。    焦れば焦るほど、無情にも鎖の先端部分がポロリと外れる。  ガチャガチャッ、ロックされたドアノブが何度も回された。  ネズミの心臓は限界点まで鼓動を速める。  拳銃を持っているため、片手しか使えない。    ドアノブを持って押さえるか、早急にチェーンロックするか。  瞬間に、チェーンロックを選んだ。  ドアノブは少なくとも施錠された状態なのだ。  決断すると、再びチェーンロックをかけようとした、その時。  がしゃり。 「イッ!」  ロックされているドアノブの、施錠が外された音が、やけに鋭くネズミに鼓膜に響いた。  ぎっ、ぎぎいいぃぃ。  錆びた音と共に、玄関ドアがゆっくりと開かれていく。  ザザーッと大量の雨が室内へ降り注いだ。  ネズミはすべての動きを停止する。  そして、両目だけを動かして来訪者を見た。  大量の血が飛び散った白い死装束を着た、見上げるような大女が立っていた。  せつな、その女が口を開く。 「っんんわあぁぁっー!」  落雷の激しい音に重なり、大女の叫び声が響く。  むき出しの廊下を、否応なく叩く雨。  女はずぶ濡れで、長めの髪が顔を隠しボタボタと滴が垂れている。 「ヒッ!  ヒッ!」  ネズミは神仏に対して敬う心を持っていなかったことを、この時ほど後悔したことはない。  すでに意識が飛びかけていた。 「赤ちゃんを、返してえぇぇ!」  返り血を浴びた死装束の大女が叫ぶ。  キューンと目を回し、ネズミは完全に失神してしまったのであった。 ~※※~  気持ちのいいシャワーだこと。  このマンションの廊下は、雨が直接当たりますものね。  えーっと、二件お隣は灯りが洩れておりますゆえ、ご不在ではないみたい。  数度玄関をコンコンと、お上品にノック。  こちらのお宅は、呼び鈴がございませんの。  雷さまと雨音のデュエットで、聴こえないのかしら?  ではもう少し力を込めまして、ドンドン、ドドン、あっそーれ、ドドンド、ドンドンと。  合いの手を入れましてのノック。    だめね。  仕方ないですわ。  わたくしはいったんお部屋へもどります。  こうなったらママに教わった要領で、ピッキングをば。  電子錠だってわたくしの手にかかれば、あっという間に開錠よ。  ここの施錠くらいはお茶の子さいさい、って感じかしら。  うふふ。  もしチェーンロックがあったとしても、そんなのは手刀でエイッといっちゃいますもの。  ほら、簡単に開いたわ。  こんばんはーっ!   わたくし、ご挨拶だけは必ず元気よくしなさいって、両親から言われております。  あら、こちらにお住まいになるのは、殿方でいらっしゃいますのね。  それなら白菜キムチは、たーんとおすそ分けしなければ、ですわね。    わたくしの、赤ちゃんを返していただきに参りました。  二件隣りに住まう、墓尾つばめと申します。  今後ともよろしく、ってあらいやだ。  お話の途中で、お眠りになってしまわれましたわ。  お引越しでかなり体力を消耗されましたのね。  おや?  このおかたがお持ちになっておられるのは、懐かしのトカレフではございませんこと?  わたくし、銃器の扱いについては少々得意としておりますの。  二年後の、就職活動時のエントリーシート。  特技の欄に「あらゆる火器の取り扱い可。特に銃器においての見識及び技術は目を瞠はる」、なんて書けるくらいです。  茶畑で世界のお茶を製造販売されています、わたくしの叔父さま。  貿易業も営んでおり、拳銃や自動小銃、手りゅう弾なども幅広く扱っております。  でも薄利多売だって、嘆いておりますのよ。    ですからわたくしも叔父さまの手ほどきを受けまして、小学生時代より叔父さまの住まうお屋敷の地下にございます、射撃場(シューティング・ルーム)で腕を磨いておりました。  高校生の頃には叔父さまから、これと同じトカレフをプレゼントされまして、通学カバンにこっそり忍ばせておりましたわ。    思い出しました。  ある日、学校からの帰り道のことです。  わたくしは自転車通学をしておりました。  もちろん常に全速力。  わたくし、自転車のサドルに腰を降ろして漕いだことは、一度たりとてございません。  自転車は立ち漕ぎ、これが基本でございます。  セーラー服のスカートをなびかせまして、時速は六十から七十キロくらいでしたかしら。  商店街を通り抜けて住宅街へ入った途中で「誰かっ、捕まえてーっ!」、と女性の叫び声を耳にいたしましたの。  中年のおばさまが、道路にしゃがんでおりました。    ふとそのおばさまの前方に目を向けますと、ソフトバイクに乗った殿方が片手にハンドバッグを持っているではありませんか。  これはひったくり!   わたくしはピーンときましたの。  でも人通りがまったく途絶えてしまっており、おばさまの悲鳴は誰にも届いておりません。  わたくしは意を決し、再び自転車のペダルを力いっぱい漕ぎましたわ。  すぐに追いつき、「あなた、停まりなさいな」と声をかけます。「ひったくりは捕まれば極刑ですのよ」と、なんとか諭そうと試みました。  でもダメ。  やはり女子高生の言葉など、聞く耳持たずでございました。                                 つづく      
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