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その三
ブワアッ!
室内の空気が物理的な暴力臭を伴って、凜子に襲いかかる。
臭いの元は、白菜キムチであった。
つばめの実家から毎週宅配便で送られる、大量の白菜キムチ。冷蔵庫に入りきらず、キッチンに積まれたタッパーの数だけ見れば、「ここは韓国のキムチ屋さんか」と誰しも思う。
そのタッパーから漏れ出した強烈な臭いが、玄関を開けたとたんバックファイヤーのように来訪者に襲いかかる。
反射的に、両目を固く閉じる凜子。
ところが姫二郎は、油断していた。
マスクさえあればなんとかなると、タカをくくっていたのだ。
強烈な刺激臭が鋭利な針となり、眼鏡フレームで屈折し、細い目に矢継ぎ早に突き刺さった。
「ぐえっ!」
姫二郎は押しつぶされた蛙のような悲鳴を上げて、廊下でのたうちまわる。
「まあっ、凜子さまにヒメさま、ごきげんよう」
そこにはニコリと天使の微笑みを浮かべる同級生、墓尾つばめが立っていた。
だが一目見るなり、凜子は「ヒッ!」と喉を鳴らして、その場に腰を抜かす。
つばめは真っ赤な鮮血が飛び散った白い経帷子、死装束姿であったのだ。
~※※~
あらまあっ、いったいどうなさったのかしら?
ヒメさまは廊下でうめきながら転がっておられ、凜子さまは顔面蒼白で震えながらしゃがみ込まれてしまって。
そうだわ!
この症状、わたくし存じております。
熱中症、とやらに違いありませんわ。
とにかくお部屋に入っていただいて、なにか冷たい物でもお出ししなければ。
機転の利くわたくし。
瞬時にそう判断すると、首を振ってイヤがるそぶりのお二人を、急いで玄関先からお家の中へ入っていただこうと動きます。
熱中症の初期症状に、確かありましたもの。
イヤイヤをするように、無意識のうちに首を激しく横に振って頭部に溜まった熱を放出する、自己防衛本能が垣間見えるって。
敬愛する友人たちのピンチ!
わたくしはまず凜子さんの首根っこをムンズッとばかりにつかみ上げ、放り込むように我が部屋へ。
ヒメさまにいたっては身体が硬直なさっておられるのか、廊下の手すりにしがみついて離れようとしません。
でもこのままではお命に関わるかもしれぬと判断。
わたくしは、きゃしゃな細腕をヒメさまのやや太めのお首に絡めますと、柔道で言います処の裸締めで(いやですわ、なにやら頬がほのかに熱い)頸動脈を圧迫しつつ、すかさずお似合いのオカッパヘアをグキッと九十度回転させます。
ヒメさまがブラックアウトなさる寸前に、そのままお部屋へ引きずり込みました。
ふうっ、間一髪でしたわ。
そうだわ!
熱を冷やさなければ。
冷蔵庫に夏向けの清涼飲料水がありますから、グラスに注いでっと。
失礼してお顔のマスクを剥ぎ取ります。
ささ、キューッと一気に喉をうるおしてくださいな。
まあっ!
お二人とも口に含んだ途端、勢いよく吹き出してしまったわ。
こんなサッパリした飲み物もお身体が受け付けないなんて。
田畑さまから頂戴したタマネギをすりおろして作った、百パーセント還元野菜ジュースですのに。
もしやあの、ジカ熱も併発しているのではないかしら?
そういえば凜子さまもヒメさまも、マスクをしていらっしゃったわ。
これはわたくしに感染しないようにとのお計らい。
非常時ゆえ、抵抗されるのを無理やり引っ剥がしましたけど。
ただごとではありませんわね。
呼吸が尋常ではないくらい激しいわ。
ちょうどよかった。
先ほど実家から荷物が届いたの。
その中にお薬が。
うふふ、宅配便のおにいさまったら、わたくしが玄関を開けるなり思いっきりお顔を伏せられて、酸欠状態みたいにお口をパクパク。
罪な女ですわね、わたくしは。
そんなにむせ返られるほどの器量よしではございませんのに。
そういえば、受け取りの印鑑もサインも受け取られずに、足早に去って行かれましたけど。
よほどお仕事ご多忙なのね。
はい?
この衣装でございますか?
お笑いにならないでくださいまし。
実はママが定期的に宅配便で、色々な生活必需品を送ってくれますの。
ですから、ほらご覧になって。
テーブル横に大きな段ボール箱がございますでしょ。
えっ?
箱の下半分が赤黒く染まって、床に血が流れているですって?
何か動物の死骸でも梱包されていたのか、とお訊きになっておられるのですわね?
ブッブーッ、はずれ、でございますわ。
ママはいつも手作り白菜キムチをタッパーに入れて、他の品と一緒に送ってくれるのですけど、タッパーの蓋がちゃんと閉まってなかったようなのですわ。
ですから、漬け汁が運送中にこぼれてしまったみたいなのです。
いくらママでも動物の死骸を送るなら、いつも必ずきっちりと、真空パックを利用いたしますもの。
おほほっ。
えっ?
キムチの匂いが強烈で呼吸困難だから、窓を全開にしてほしいですって?
大丈夫ですわ、凜子さま。
キムチからにじみ出た乳酸菌が、くまなくお部屋に充満して、それこそ悪玉菌を根こそぎ退治してくれますから。
どうかお気になさらず。
そうそう、この衣装ですわね。
はい、ご明察ですわ、ヒメさま。
返り血のように染まっておりますのは、キムチの漬け汁でございます。
はい?
どうして死装束を着ているか、とのご質問ですわね?
うふふ、これもママの失敗談なのですわ。
ママがわたくしに夏用の浴衣を作ってくれて、荷物の中へ入れてくれていたのです。
えっ?
どう見ても浴衣には見えない?
もちろんですわ。
これは遠い親せき筋に頼まれて、ママが縫いましたの。
それで送る際に、わたくし用の浴衣と、この経帷子を間違えてしまったようなのです。
ですからその遠い親せき筋のおじいさまは、仕方なくわたくしの浴衣を着せられて出棺されたそうなのです。
はい、綿紅梅の涼しげな生地に染め抜いた、色とりどりのアサガオ柄だったそうです。
そのおじいさまは小柄なかたであったらしく、浴衣のすそがひらめいて、妖怪一反木綿みたいでしたって。
アサガオ柄の一反木綿って、なにやら可愛いらしゅうございますわね。
先ほどママから電話があって、教えてくれました。
それでわたくしはと申しますと、せっかくママが送ってくれましたから一度袖を通してみようかな、なんて思って現在に至る、ってところですのよ。
どうかしら?
似合いますでしょうか、うふふっ。
見様によっては、白地に赤く、ヒガンバナに見えませんこと?
えっ?
かえって不吉だとおっしゃいますの?
ヒガンバナはお嫌いですか?
まあ、わたくしったら、すっかり失念しておりましたわ。
届きました品の中に、ママがお薬を入れてくれておりましたのよ。
はい、ママが通信販売で手広く全国の会員さまにお分けしております、万能薬でございますの。
ジカ熱どころか、身体中のウイルスを良い悪い問わず、完膚なきまで根こそぎ死滅させてくれますのよ。
えっ?
以前に部活中調子の悪くなった部員に、無理やり飲ませたアノ怪しい薬かと仰いますの?
服用したとたん超ハイテンションになって、鼻血を吹き上げながら三日三晩、不眠不休で踊り続けてそのまま病院に担ぎ込まれた、同期の戊馬笛人さまのことでしょうか。
あの時は、水薬でしたわね。
本来は千分の一に希釈いたしまして、服用いたしますのよ。
それをわたくしが誤って原液のまま一ヶ月分相当の分量を、一気に飲ませてしまいましたからなの。
うふふ。
それに今回は、ママがさらに試行錯誤して改良いたしましたの。
飲みやすいように、糖衣錠にしました新薬ですのよ。
えーっと、これこれ、この小瓶に入っておりますのよ。
ご覧くださいまし。
七色の原色で、綺麗な錠剤でございますでしょ。
凜子さまは何色がお好みかしら。
赤?
それとも紫。
絵の具よりも色が濃いと仰いますの?
大丈夫ですわ。
効能はどれも同じでございますゆえ。
ささ、ヒメさま、どうぞお飲みくださいませ。
ご遠慮なさらずとも、同じ漫研のよしみじゃございませんこと?
そうですかぁ、宗教上のご制約がおありであればいたし方ございませんわね。
凜子さまはご先祖さまから、一切の薬を服用することなかれと、代々申し渡されておられるならば、それを破るわけには参りませんものね。
はい?
やっと香りに慣れてきた?
やはり乳酸菌の力、侮れませんわね。
それではわたくし、とっておきのお紅茶を淹れさせていただきますので、奥のお部屋でおくつろぎくださいませ。
でもヒメさま、あまりジロジロと眺めないでくださいまし。
わたくしも嫁入り前の乙女、恥じらいがございますゆえ。
お紅茶を淹れる間、どうぞお楽にご歓談くださいませ。
つづく
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