第二話、ですの 「手ぐすね引いて、あなたを待っていたのよ」

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第二話、ですの 「手ぐすね引いて、あなたを待っていたのよ」

その一 「な、なるべく口呼吸でね、ヒメちゃん」 「う、ううう、口呼吸だと、喉が焼けるような刺激臭が、口いっぱいに広がるぅ」 「我慢よ、我慢。  わたしの経験だと、あと数分で臭覚神経がマヒしてくれるからさ」  つばめの住まう1DKの部屋は、キムチの他、これまた大量の生ニンニク、生ニラに納豆、その他さまざまな発酵製品の作り出す強烈な臭いが化学反応を起し、さらなる激臭に汚染されているのだ。  凜子はキッチンでお湯を沸かすつばめの後ろ姿を、チラ見する。  ふと首をかしげた。  六畳の部屋は、窓が閉めきってある。  キッチンの窓も、防犯用の曇りガラスが閉じられている。  エアコンは、ない。  扇風機もない。  にも関わらず、暑さを感じないのだ。  暑さどころか、むしろゾクリと寒気がする。  いや、風邪など引いてはいない。  Tシャツから出ている腕に、知らぬ間に鳥肌が立っている。  この寒気は、なに?   得体のしれない恐怖感が、凜子を包み始めていた。  誰かに見られている?  そんな気配がキッチンから感じ取れる。  ま、まさか「事故物件」の元凶が本当にいるの?  姫二郎はきっちり正座して、ジッと畳を見ている。  女子の部屋へ入るなど、経験がないのかもしれない。  その様子を目にした凜子は苦笑を浮かべ、少しだけ落ち着いた。  六畳の部屋はベッドに勉強机、その横にはカラーボックスがあり、小さな液晶テレビとBlu-ray機器が設置されている。  あとは籐のタンス、今二人が向き合っている小さな卓袱台があるだけだ。  つばめは几帳面かつ綺麗好きなのか、部屋は古いが整理されていた。  見上げる壁にはあの有名な江戸川乱歩のモノクロ写真が掲げられ、反対側の壁には漫画家日野日出志の「蔵六の奇病」なる漫画の扉絵が、ほぼ壁を覆う特注の巨大な額縁に入れられ飾ってある。  キッチンから、つばめが楽しげに鼻唄を歌っているのが聴こえてきた。  いや、ハミングなどという生やさしい代物ではない。  音階もリズムも、音楽と称する範疇を越えている。  と言うよりも、音楽の理論やセオリーを真っ二つに破壊しているハミングなのだ。  多分誰も聴いたことのないと思われるそのメロディは、地獄で流れているBGMのように、戦慄の走る旋律であった。  怖気の走る悪鬼の調べ、それをつばめはフン、フフーンと上機嫌で口ずさんでいる。  コワい。  凜子はその鼻唄を聞き流すために、人形をおぶったままの姫二郎に声をかけた。 「ヒ、ヒメちゃん、その人形を降ろしてつばめに見せてあげたら?  アッ、でもわたしのほうに顔を向けないでちょうだいね」 「ああ、はいはい、そうでしたな。  なにやら思考回路が尋常ではなくなってきておりまして、自分が何しに来たのか、すっかり忘れておりましたぞ」 「それはわたしも同じ。  ねえ、つばめ?」  凜子はキッチンに向かって声をかける。 「お茶はいいからさ、こっちへおいでよ」 「もうしばらくお待ちになって。  きょうはとっておきのお紅茶、マリアージュフレールよ」  確かに焼肉店も真っ青のキムチやニンニクなどの刺激臭が占める室内に、ほんの微量ながら紅茶の香りが漂う。  それは大海原で乗っていた船が転覆し、アップアップと今にも海の藻屑と成り果てそうな時に、小さな浮き輪を見つけた、そんな安堵感があった。 ~※※~  さあって、手際よく準備いたしましたところでティー・タイムですわ。  本日わたくしがチョイスいたしました茶葉は、マリアージュフレール。  この気品あふれる香りに包まれるだけで、わたくしはもう夢心地。  叔父さまに感謝しなくては。  わたくしのパパの弟、つまり叔父さまからのプレゼントよ。  と申しましても、わざわざフランスから輸入しているわけではございませんの。  叔父さまは広大な土地を保有されており、そこであらゆるブランドのお茶の葉を栽培いたしております。  日本茶、紅茶はもちろんのこと、中国福建省のウーロン茶まで。  世界中の高級ブランドのお茶の葉を生産、販売いたしております。  お値段は驚くなかれ、本家の市場価格十分の一、でございますのよ。  にもかかわらず、容器やパックに至るまで、きっちりと本家と違わず。  微に入り細いを穿つ叔父さまの職人芸、お見事でございますわ。  そうだわ。  凜子さん、テレビをお付けになってくださらないかしら。  DVDが観られるように、ああ、ヒメさまはお得意ですのね、電器関係は。  そのまま再生してくださる?  うふふ、わたくしの実家で飼っております愛犬の様子を、パパが映して送ってくれたのです。  画像、出ましたかしら。  実家のすぐそばにあります山へ、散歩しに行った時のものなのです。  チャッピー、もう出て参りましたでしょうか。  ええ、我が家の甘えん坊さんはチャッピーと申しまして、とてもかわいいワンちゃんなのです。  お座りして、撮影しているパパに愛嬌をふりまいておりますでしょ。  はい、チワワですの。  小麦色と白い毛並みが綺麗ですのよ。  えっ?  後ろに映っている樹木との対比が変?   山に生えている木々はミニチュアか、とお訊きになってらっしゃいますのかしら。  いえいえ、どこの山とも同じですわ。  逆にミニチュアの樹木が生えている山があるのなら、わたくし是非行ってみたいものです。  CG?  はい?   ヒメさま、申し訳ございません。  仰っている意味が、わたくしの頭では理解不能でございます。  ははー、なるほど。  チャッピーはチワワにしては巨大過ぎる、そういうことですのね。  チャッピーは、実はミックスですの。  あっ、でもチャッピーの両親は血統書付きの、由緒正しき出自でございます、念のため。  お父さんがチワワ。  チャッピーと瓜二つですのよ。  それでお母さんが、土佐犬なのです。  これでお分かりになって?  チャッピーは、見かけはお父さん譲り、体格はお母さん譲りでございます。  ですから体高は約八十センチ、体重は九十キロくらいかしら。  お父さんが体高十五センチ、体重が二キロですから、いつのまにかお父さんより大きくなりました。  性格はお母さんの遺伝子をきっちり受け継いでいるようでして、たまに山の中でヒグマに出会うと、猛然と立ち向かっていきますのよ。  グリズリー級のヒグマだって、一噛みで昇天させちゃったこともありますの。  勇ましい女の子ちゃんなのです。  うふふ。  さあ、お紅茶が良い香りを発してくれております。  はい、どうぞ、召し上がれ。  暑い季節には熱い飲み物ですわ。  レモンはこちら。  ヒメさまはシュガーをご所望でいらっしゃるのかしら?   少々お待ちになって。  普段わたくしは使用いたしませぬものですから、たしか勉強机の引き出しの奥にあったような。  ああ、これですわ。  わたくしが小学校に上がる頃、おやつ代わりにと、おばあちゃまがくださったのよ、角砂糖を。    あらっ?     いつの間にか茶褐色に。  いただいた時は雪のように真っ白でしたのに。    えっ?  必要ございませんのですか?  でしたらお土産にでも。    間に合ってる、ってことですわね。  あい、わかりました。    嬉しいですわね、こうして志を同じくした者同士でお茶をいただけるなんて。  今夜はお二人がいらっしゃるとお聴きいたしましたので、お夕飯を腕によりをかけて、わたくし準備いたします。  いつもお野菜をいただく田畑さまの畑から、もう少し先に鳥飼さまってかたがいらっしゃいますの。                                つづく
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