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空気抵抗があるとはいえ、先に落ちた物に後から落ちた者が追いつく事は容易ではない。時速100km(85kt)を超える速度で落下していても、トランクまでの接近は亀より遅かった。内地は初めての勁二郎はそんな事にも気付かなかった。更に、落ちていく途中で非情な事実に気付く。たとえトランクに追いつけたとしても、ブレーキする手段が無ければ自分も一緒に落ちていくだけである。さっきの相乗りの旅行者も、地上が待ちきれなくてさっさと飛び降りる客もいると言っていたが、本当にこの距離でも大丈夫なんだろうか? 本土が初めての勁二郎には、この距離の自由落下でどうなるか知らなかった。受け身を取れば大丈夫かな? 思わず両腕を羽ばたかせて減速を試みてしまう。
「……もう駄目だ。初っぱなから失敗した。弁当はこっちに入れておいて良かった」
脇の鞄から握り飯の包みを取り出しながら呟いた。取り出した途端に天高く舞い上がってバラバラに散った。
「……」
父に言われた最後の言葉が脳裏を過ぎる。
「腑抜け。お前のような屑が息子かと思うと我慢がならん。お前のような出来損ないがどこへ行こうとも何かを成せると思うな」
……好き放題言ってくれたな。俺は逃げる為に家を出たんじゃない。熾原家とは別の生き方を選ぶ為にそうしたんだ。
勁二郎は肺の空気を全て吐き出す勢いで力の限り叫んだ。全力で平泳ぎを再開する。どうやってトランクを無事に地上に降ろすかは捕まえてから考える……!
という気合いと共に服を脱いでいく。タイを引き抜き、サスペンダーを外し、下はパンイチになって、それらを順に結んでいく。Y字のサスペンダーの上端二箇所の金具をかみ合わせて輪っかを作る。少しでもリーチを稼ぐ為、親指と人差し指だけで掴み、水面に小石を投げるように振るった。距離が圧倒的に足りない。バランスが崩れてくるりと前転してしまった。手足をばたつかせているせいで空気抵抗が増し、寧ろトランクから遠ざかっていく。
もの凄い速度で一直線に落下していっている事は、全身を打ち付ける猛烈な風圧から分る。だが、遠方に壁となってそそり立つ大地は少しも変わって見えなかった。
だけど、まだ大丈夫と思っていると気付いた時には手遅れになる。……人生と同じだ。
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