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◆1・単なる墜落事故
感覚が、ある。
彼には、それがとても懐かしく思えた。
背面全体に、短い草がちくちくと刺さるような触覚。
そよ風に運ばれてくるのは、鼻腔をくすぐる芳しき花弁の香り。
微かに聞こえる葉擦れの音。
瞼をこじ開けようとする、暴虐な光の眩しさ。
その全てが、五感が備わっているなら当たり前のはずなのに、何故か久しいと思えてしまって。
目を開けて初めに飛び込んできたものは、蒼一面の真ん中で圧倒的な存在感を放つ光源。
雲一つ無い晴天が目の前に広がっていて、視界の真中心に陣取る太陽を、その数倍の直径を有する虹色の日輪がぐるりと囲んでいる。
その色彩が、きらびやかに揺らめく。
まるで七色の幻であるかのように、ゆらゆら、きらきらと。
……中央の光の主に、呼応して。
「眩しいな……」
呟いた声は、思いのほか低かった。
それで彼は、自分がどうやら青年であるらしいことを知る。
青年は横たえたままの身を起こす。
ゆっくりと動作を確認しながら起こしていくと、やがて白い肌が見えてきた。
作り物みたいに白く滑らかな肌と、剥き出しの下半身。
そして、頭上から降ってくる長めの細い金髪。
髪色は、どうやら金であるらしい。
自分をもっと知りたいと思った時、ふと脳内に――自分らしき人物の全身が映し出された。
(これが、俺の体?)
自分のものなら見慣れているはずだが、まるで初めて見るような気がする。
背の半ばまで達する細く真っ直ぐな金髪を見ても、絞り上げられた筋肉質な身体各所を見ても、蒼玉の如き深い瞳の色を見ても、それが自分のものであるという実感が沸かない。
それは一体何故か?
(記憶が、無い……?)
青年には、自分の名前はおろか、生まれた場所、育った環境、関わった人々に至るまで、凡そアイデンティティに関わる記憶の一切が無かった。
ただ、言語に関する記憶があるだけ。
「俺は、誰? ここどこ?」
記憶喪失者が最初にぶち当たるであろう常套句的な疑問を口にしつつ周囲を見渡すと、そこは花畑だった。
多種多様な花々が、緑の絨毯の上で色鮮やかに咲き誇っている。
花畑は直径二〇m程の円形で、中央には腰の高さくらいの石版があり、外縁の先は鬱蒼とした草木に囲まれていて、その囲いより先は見通せない状態だった。
(花畑……って、まさか死者の国か?)
青年は立ち上がり、更に情報を収集するべく歩を進める。
が、不意に空を見上げて目を見開いた。
(何か……来る!)
異変を察知した青年は腰を落として身構え、いつでも回避行動を取れる態勢に。
その数秒後、空の彼方で一瞬煌めく物が見えた瞬間――
「なっ!?」
無音で、何かが眼前に落下。
一泊遅れて大気を裂く轟音と衝撃波が吹き荒れ、同時に地面を抉る爆発が発生し、土や草花が乱れ飛ぶ。
どうやら飛来物は、音速を超えて落下してきたらしい。
「げほっ、ぐぇほっ……ぐは……はぁぁぁ、何だってんだよ」
土煙が風に運ばれて視界が晴れると、花畑の中央が直径三mほどの円状に抉られていて、そのド真ん中に、二振りの直刀が交差して突き立っていた。
左手側は白い刃に刃と同形の蒼い宝石が嵌め込まれており、右手側は黒い刃に同様の紅い宝石が嵌め込まれている。
そして微かに霊気のようなものを帯びていたが、すぐに収束していく。
仔細を見つめていた青年は目を細め、次いで天を見上げた。
その視線の先には、爛々と輝く太陽が在って。
「贈り物にしては、ちょっと雑過ぎやしないか?」
まるで親しい友人と会話でもするかのように、青年は苦笑を浮かべてそう言った。
視線を二振りの直刀――双刀へと戻した青年は、緑草と茶色く抉れた土の境界を踏み越え、近づいていく。
双刀の近くで立ち止まり、それぞれの柄に手を伸ばし、握った。
すると双刀はすぐにその手の中へと、吸い込まれるように消えてしまう。
(え? あれ? 消えちゃうの?)
青年はしかし、無くなった訳ではないと悟る。
いま目前で消えた双刀は……その力は、自らの内から感じられたからだ。
(俺の、中にいる? おいおい、刀に寄生されるとか聞いたことないぜ)
うんざりだとばかりに肩をすくめ、項垂れる。
その直後、青年の腹がいい音量で鳴った。
(……腹、減ったな)
青年は周囲を見渡し、食べられそうな物を探すことに。
(あの草は……栄養ないな。花の蜜じゃ足りないし……ん? あの木の実なら、少しは腹の足しになりそうだな)
花畑を囲む木々、その一つに狙いを定め、歩いて向かう。
幹と枝を掴んで登り、濃い茶色で楕円形の木の実をもぎ取り、そのまま食べた。
(うん、いけるいける)
味をしめた青年は、木の実を食べ尽くす勢いで口の中へと掻き込む。
食べながら今度は果実を見つけて、そちらの木へと飛び移り、貪りだす。
その姿はまるで、底知れぬ空腹に陥った猿のようで――
◇◇◇◇◇◇
神世暦三〇五〇年、四月一八日、ガウリイル王国東部、霊峰ソレイル山の近辺は、朝から真っ黒な雲が覆う悪天候だった。
空気は不快な湿気を帯びていて、誰しもが雨を疑わぬほどの。
霊峰の五合目付近にある温泉地は世界でも有数の観光地として名を馳せており、嵐が来そうな状況でも商店通りにはそれなりに人が歩いている。
そんな中、一際目を引く一行があった。
軽装ではあるが、高価であろう白銀の鎧と紅い外套を纏う騎士団と、それに囲まれた一〇代後半の、三人の少女。
その内の一人は、騎士と同じ武装をしている。
後頭部で一纏めにした長く艷やかな黒髪と、吸い込まれるような黒曜石の如き瞳が印象的な凛とした少女だ。
細く引き締まる身体には一切の無駄がなく、華奢に見えるがその溌剌とした挙動が健康的な魅力を醸し出している。
もう一人は、一言で表すならば魔女。
黒く大きな三角帽子から、ゆるくふわりと波打つ赤髪が白く豊満な胸元へと落ち、つば先から覗く紫水晶の瞳は怪しく煌めき、黒く大きな外套を靡かせ、幾何学的な装飾の大杖を持ち歩く様は、見るものを魅了して止まない。
そしてその二人に挟まれて歩くのは、神話から抜け出してきたかと見紛うほどの壮麗さを持つ少女。
絹より滑らかな金色の髪を背中までなびかせ、藍玉の瞳はこの曇天でも輝きを放つ。
身に纏うものはどれも精緻な装飾が施されており、蒼き外套と白い旅装用の動きやすい服では隠しきれない均整のとれた肢体は、歩くだけで男女問わずその視線を釘付けにする。。
三人とも、その美貌は群を抜いていた。
まるで一流の造形師がその理想を詰め込んだ芸術かと思わせるほどの、凡そ現実味という言葉からは隔絶された美を体現していて。
当然それは異色な一団として、通行人の目を引く。
「姫様!」
「まさか、王女殿下!?」
通行人がその存在に気づき、声を上げた。
「いかにも、此方におわすはガウリイルの王女、リアレ=C=ガウリイル殿下であらせられるぞ! 道をあけよ!」
先頭を歩く長き茶髪と灰の瞳を持つ大柄な四〇代くらいの男性騎士が、髭をたくわえた口を大きく開き、腹の底から響く大声でそう告げる。
それに気づいた通行人たちは次々に片膝を付き、敬服の意を示す。
敬意を表された当の本人は、逆に顔を曇らせてしまった。
伏し目がちに、居たたまれぬという様子で。
「よしなさい、ドウマ。姫様が困ってらっしゃるわ」
それにいち早く感づいた魔女が、姫より少し高い目線から、先頭を歩く騎士ドウマに向かって釘を刺す。
「はっ! しかし警備の都合上、この方が警戒もしやすいのであります!」
近づく者がいれば、暗殺などの襲撃を警戒せねばならない。
しかしほとんど座しているなら動くものに注意すれば良いのだから、ドウマの意見も最もであった。
「大丈夫よ。この私がいるんだもの」
しかし魔女は意に介さず、むしろ杞憂だと言わんばかりに胸を張っている。
「それとも、貴方はまさか、この私の力を疑うのかしらぁ?」
「いえ、そういう訳では……ありませんが」
「ふふ……なら、いいのだけれど?」
妖艶に微笑む魔女に、背筋を凍りつかせていたのはドウマだけではない。
周りにいる騎士のだれもが身を竦ませ、額や頬から脂汗を滲ませている。
それほどまでに、この魔女に備わる威圧感というものは異質であった。
「ディアナ殿。油断は身を滅ぼすと言います」
そんな中、頼りない男に代わって己の意見を言えたのは、王女を挟んで反対側を警護する騎士の少女だけであった。
「あらぁ、ツキナ。貴女は赤子にも万全の態勢で警戒するの? 私にとって、世の有象無象など赤子同然。警戒など、無意味よ」
他を嘲り余裕を見せる魔女の冷ややかな流し目も、騎士ツキナは容易く受け止める。
「赤子でも、それが龍の赤子ならば如何でしょう? 見た目が人でも、その地力は人とは比べるべくもありません」
「そうねぇ、そんな稀有な赤子が居たら可愛がってあげるまでよ? ……骨の髄までね」
「もうやめなさい。そろそろ着くわ」
呆れ混じりの王女が凛とした一声を発することで、場は収まった。
それに応じた二人の返答は、それぞれの性格を如実に表す。
「はい」
「ふふふ……そうね」
王女の顔に影を落としながら、一行は緩やかな傾斜の中央街道を登っていく。
木と石造りの温泉宿や商店を横目に、砂利の道をひた歩き、街の奥の森に隣接する区域を目指していた。
そこには、王族や特権階級専用の宿が存在する。
――この街で最も目立つ高台に位置し、豪奢な宮殿の如き宿が。
一行は程なく目的地に辿り着き部屋に荷物を置くと、すぐに王女以下三名の女性たちは部屋付きの露天浴場へと足を運んだ。
大窓を押し開いて出ればそのまま囲い付きの露天風呂になっており、長旅で汚れた衣服を脱衣籠に入れると、石造りの椅子が並ぶ洗い場にて身体を洗い始める。
「ふぅ……やっと汚れを落とせますね」
「ええ。流石に、慣れない山登りは堪えたわぁ」
「ディアナ殿はもう少し普段から運動するべきでは?」
「イヤよ。汗をかくのは嫌いなの」
「勿体無い。こうして運動した後のお風呂は、格別じゃないですか」
先程の剣呑な雰囲気はどこへやら、騎士ツキナと魔女ディアナは何事も無かったかのように普通の会話を交わす。
「これで天気が良ければね」
王女リアレは洗い終わった髪を結い上げながら、空を見上げた。
すると突然、暗雲から一条の光が垂直に降りて――
「え? ね、ねぇ……二人とも!」
「ん~? どうしたのぉ?」
「どうされました? 殿、下……!?」
――黒が、光に押しのけられていく。
最初に光が差し込んだ一点を中心として、空で急速に円が広がっていた。
「何が起こっているの……!? ディアナ!?」
「わ、わからないわ。リアレが天気に文句言ったからじゃないの!?」
「そんなワケないでしょう!? ……何か感じられないの?」
リアレの問いかけに、ディアナは思考とその表情が固まる。
ツキナは、傍らに持ってきていた剣の柄へと、無意識に手を掛けていた。
「……山の天気は変わりやすいと聞きますが、まさかこれほどとは」
「冗談言ってる場合?」
騎士のボケに、王女からの呆れ混じりのツッコミ。
「まぁでも、嫌な気配は無い……かしら?」
「むしろ、清浄過ぎて魔女としてはイヤだけど」
「そうですね。まるで天使でも降臨したみたいな空気です。ん? ……あ! 日輪が出ましたよ! これは、何かの型示しでしょうか?」
「本当ね……綺麗な虹色。まぁ悪いものじゃないなら、後でじっくり調べましょう」
落ち着いた魔女の言葉を聞いて、他の二人も落ち着きを取り戻す。
「そうね。どちらにせよ、ここでは判断材料が少ないし。一応、騎士たちに軽く調べさせておいて」
「分かりました」
リアレの命を受け、ツキナは室外で待機する他の騎士に伝令を行った。
洗身洗髪を終えて向かうは、三人では広すぎる露天風呂へ。
自然の湖を意識したのか、浴槽の輪郭は無造作に湾曲しており、島に見立てた岩や、木の柵からは本物の樹木が枝を伸ばしている。
いつの間にか空はすっかり晴天となり、射し込む午後の日差しが、神々しいまでに優美な三つの肢体を照らし上げていく。
白磁のような肌は湯に濡れてほのかに赤く上気し、体側部の稜線はそれぞれに理想的な曲線を描いていた。
「あぁぁ……いい温度ね」
湯に足を差し込みつつ快楽に身を捩るディアナは、三人の中で一番背が高く、豊満で大人な魅力を持つ。
「少し緩みすぎよ」
ディアナに釘を刺しながら横を通り過ぎたリアレは、平均的な身長で細身だが、女性として出る所はしっかりと出ていて、均衡の取れた一つの理想形を成していた。
「何よぉ。こんなのいつものことじゃない? それより、お姉さまが貴女の成長を確かめてあげるわ!」
「ひゃっ!? ちょ、ちょっとそれヤメてってば!」
湯船の中で、リアレの胸を後ろからディアナが鷲掴みに。
「う~ん、まぁまぁかしら? まだ私には及ばないわねぇ」
「は、離しなさいっ!」
振りほどくリアレの顔は、耳まで真っ赤に染まっていて。
それがまたディアナの嗜虐心に火を点ける。
「相変わらず可愛い反応ね。もぅ、食べてしまいたいくらい」
「これ以上はさせませんよ。変態魔女」
舌舐めずりをした魔女に追い詰められるウサギの如き王女を庇うべく、騎士が割って入った。
騎士の顔を見て、そのまま視線を下げて胸元を見たディアナは、途端にスッと表情が冷める。
「……貴女は、なかなか成長が見られないわねぇ。顔は良いのだけれど」
「ぐっ……女性の魅力とは、胸だけで決まるものではありません」
「そうね。小さい方が好きな殿方もいることだし。貴女には貴女の魅力があるものね」
「なんですかその無味無臭で取ってつけたような感想は!」
ジト目で真っ直ぐ睨むツキナだが、ディアナは下方に憐れみの視線を向けているのでぶつからない。
ツキナは平均以下の身長かつ過度な鍛錬からか肉付きも少ないので、実年齢より幼く見られるなんてことはザラだった。
本人としては至って不服なわけだが。
「ま、せっかくだし、のんびりと楽しみましょ?」
「誰のせいでのんびり出来てないと思ってんのよ!」
リアレの真っ当な抗議などお構いなしに、あっさりと掌を返したディアナは、湯船に埋められた手頃な大きさの石に腰掛けて、言葉通り半身浴を楽しみ始めた。
その様子に拍子抜けした二人も、それぞれ湯船に浸かる。
無論、ディアナと適度な距離を空けて。
「しかし、王族も大変よねぇ。成人の儀だか何だか知らないけど、わざわざこんな遠くまで礼拝に来なきゃいけないなんて」
「神理聖教のしきたりですからね。この霊峰は、我らが創造主に一番近い場所なので」
「神様なんて、一度もお目にかかったことないのにねぇ?」
「そうですね。しかし、見えずともその力は実在しています。貴女が契約する魔族の力と同じように」
「……聖魔戦争なら他所でやって」
白熱する魔女と聖騎士の抗争に冷涼な声で水を掛ける王女は、熱く火照りだした上半身を浴槽の縁――黒大理石の平板にだらりと預け、熱を吸わせていく。
両腕を押しつぶされた胸の前で交差させ、それを枕代わりに空を見上げれば、露天風呂を囲む木製の間仕切り柵の上から、いくつか背の高い樹木が枝を伸ばしていることに目が止まる。
かなり頑丈そうな太い枝で、大人の男性が乗っても支えることができそうだった。
(あれ? あの枝、一瞬しなったような?)
一抹の不安を抱いた王女は、二人の従者へ声をかける。
「ねぇ二人とも。あの木――」
言葉を途中で止めたのは、頭上から小気味の良い乾いた音が聴こえたから。
そして、何かが落水する大きな音が轟く。
――彼女たちが入る、湯船で。
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