第2話 灰の谷

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 集合住宅地の一角。穏やかな昼下がりに、不釣り合いな怒号が響く。「修繕屋イルスン」と書かれた小さな看板の脇には、若葉を模した喪章が添えられていた。 「だから、無いものは無いと言っているでしょうが!」 「娘は事故で、あの橋から落ちて……」  語気を荒らげて反駁する筋肉質の夫と、涙ながらに事情を話す細身の妻。彼ら二人と客間のテーブル越しに対面しつつ、アリアスはこの件について考えを巡らせていた。今回は、今までとは明らかに勝手が違っていた。「遺灰」が見つからないというのだ。 「ですが、難病の娘さんがあの渓谷まで、一人で行けるものでしょうか?」 「それについては、保安局で調べがついてるじゃありませんか。『谷底で発見された衣服から、微量ながら娘の遺灰が検出された』と。そして大部分は風化し、散逸してしまった。娘はあそこで死んだのです。私達が眼を放したばかりに、ここを抜け出して……」  夫は悲痛な面持ちで拳を握り、やり切れない思いを露わにする。噛みしめた歯と歯の間からは、今にも血が噴き出してくるように思えた。 「ですが、万一の事も考えられますので、一度御宅を調べさせていただきます」 「まさか、遺灰を隠しているとでも?」 「断定しているわけではありません。あくまで『嫌疑』の範疇を出ない推測ですから、あらかじめその旨を伝えに来たのです。そうでなければ、予告も無しに捜査を強行していたはずです。ご理解ください、ホルヘさん、ベールさん」 「……分かりました。協力しましょう」  アリアスの言葉を渋々受け入れたのか、夫のホルヘと妻のベールは互いに顔を見合わせ、そう答えた。 「ありがとうございます。今日の所は、これで失礼します」  内心では安堵しつつも、アリアスは事務的な態度を崩さずに客間を後にする。玄関前に出たところで、背後に夫妻とは違った気配を感じた。振り返ると、亡くなったイルスンの娘に瓜二つの、七~八歳程の短髪の少女が、別室の扉から顔を覗かせていた。彼女はアリアスの視線に気付くと、そそくさと引っ込んで姿を消した。
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