此岸の岸にて

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 彼は地元会社のシステムエンジニアでしたので、基本的には土日はお休みでした。私もまだ学生でしたから、休日に2人で会うようになりました。 彼は就職を機に一人暮らしを始めていました。安い割にはしっかりとした立派なマンションで、鍵こそオートロックではありませんでしたが、外観だけ見れば大きくて綺麗なマンションでした。お互いに出て歩くのが好きな性分でもなかったこともあり、休日に会うのは専ら彼の家で、お昼ご飯を一緒に作って食べるのが楽しみでした。  「ねぇ、アヤメ」 「んー?」 「就職、どうするの?離れるの?」  私の就職活動が近くなると、彼は不安そうに言いました。 カエデは、とても優しかった。だから私が就職で地元を離れると言っても、彼は寂しそうに「そっか。頑張れ」と言ったでしょう。彼はいつも私の事を優先してくれていましたから。 「……大丈夫だよ。出て行く気ないし。実家から通う方が楽だし、お金溜まるし……それに、」 彼の方を向いて一度言葉を区切り、私は笑いました。彼は歳に似合わぬ素っ頓狂な顔でこちらを見ていて、私は今度は少し声を上げて笑いました。一口、お茶を飲んで彼を見、一言。 「離れたら、こうやって会えなくなっちゃう」 「それは、私は嫌だから」と言うと、彼が突然立ち上げりました。そうして何も言わずに私の後ろに回り込むと、細身のうっすらと筋肉のついた腕に私を閉じ込めます。耳元にふわりと彼の吐息が当たり、そこだけがほんわりと温かくなって。きゅ、っと彼が腕に力を込めたのがわかりました。 「そっか……そっか。良かった……」  そう言った彼の声が、吐息が、震えていたのを私は今でも覚えています。胸の辺りが暖かく、穏やかになるのを感じながら、私はとても幸せだったのです。
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