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さて、異変はあからさまだった。
この僕は普段そうするように、できるだけ幽霊らしく神原薫の背後に立ったのだ。
ふふふ。ああ、待ち望んでいた瞬間というのはこうも官能に似た緊張を帯びるものなのか。
ふふふふふ。今日はどんなにか恐ろしく追いかけて泡を吹かせてやろうか。
そんな事を考えつつ背中にぴったりと貼りついていたのだが、おかしい。
これはおかしいぞ。
普通そうであるような恐怖が神原薫の背中からは全く伝わってこなかった。
いや、背中は震えていた。
だが、これは違う。これは・・・、笑っている。
ふふふふふ。
笑いはいつだってこの僕の台詞だったのに。
それなのに今日この日この時は神原薫が背中で笑っている。
何だ?一体どうしたって言うんだ?
「懐かしいねえ」
何だって?ちょっと待ってくれ。
この僕の心臓とか血液とかの方が変な動きを始めてしまったぞ。あり得ない。
神原薫。もしかして本当に君はこの僕の大切な何かなのか。
「まったくさあ。まだやってるんだね」
「・・・。君、もしかして僕を」
この声は届いているのだろうか。この女。神原薫に。
「そんなになってまでね。でも、まさか帰ってきたら本当に会えて私は嬉しい」
ちょっと鼻を啜ったような音が聞こえた。泣いているのか?声はこの上なく明るいが。
神原薫はすぐに気づいてあげられなくてごめんね、と小さく肩を震わせた。
そして、振り返りはせずに後ろ手にこの僕の手をそっと握った。
そんな馬鹿な。握りやがった。幽霊のこの僕の手を-。
「じゃあ、やろう!最後の競走だ」
ぎゅっと、握った手に一瞬の力が籠められると、それを合図に神原薫は勢いよく駆け出した。
これぞまさに脱兎の如し。
机も椅子も、教壇までなぎ倒して一気に教室の中を駆け抜ける。
一瞬の風になった神原薫は気持ちの良い音を響かせてドアを開け放ち、廊下へと躍り出た。
後ろは一切振り返らない。この僕の方はちらとも見ずに教室を駆けだしていったのだ。
くそっ。僕は今一体どんな顔をしているのだろう。
僕も拳を握りしめて足に力を籠めた。
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