第1章

6/12
前へ
/12ページ
次へ
 雨に濡れた女の長い髪を。必死で何かを訴えようとする女の燃える目を。そして、別れ際に言った女の言葉を。       *  雨は一向に弱くなりそうにない。  まいったな。  雨だけならなんとかなりそうだが、風が強いのがやっかいだ。  だが、今、焦ってへたに外に出ていったら大変なことになるかもしれない。ずぶ濡れになるのは構わないが、怪我でもしたら大変だ。  ふっと男のほうを見る。長丁場を覚悟したのか、ショルダーバッグから携帯型のラジオを取り出している。  そのとき、背筋が寒くなった。  男のバックの中に、茶色い革のカバーに入った細長いナイフが見えたのだ。サバイバルナイフだ。  すぐにわかったのは、おれも同じものを持っているからだ。  一瞬、この場から走り去ることも頭に浮かんだ。  だが、冷静に考えてみれば、それほど不自然なことでもない。  キャンプに行くときにサバイバルナイフを持っていく人も少なくない。肉や野菜を切るのに便利だからだ。それに、キャンプに行かずとも日常使いをしていたとしてもおかしくはない。  カバンの中に入っているのは、今日誰かにプレゼントされたのかもしれないし、逆にこれから知り合いのところに寄ってあげようと思っていたからかもしれない。  おれは何を心配しているんだ。なぜ、敏感になっているんだ。  万が一、おれを襲うためにナイフを使うとしたら、もっと慎重に扱うはず。おれに見せるようなヘマをするはずがない。  それに、この男は小柄で痩せている。  力もおれのほうがありそうだ。男がおれに対して何かしようとしても、このまま一定の距離を保ち、隙さえ見せなければ心配はいらないだろう。  男はそんなおれの臆測を知るよしもなく、ラジオのスイッチを入れる。  笑い声が聴こえてくる。  どうやら、雨でナイターが中止になり、今シーズンのプロ野球の振り返りをワイワイ賑やかにやってるようだ。  話の中心となるのは、剽軽なキャラクターで現役時代から人気のあった元プロ野球選手の解説者。 「ほんと、どうなっているんですかね、今シーズンのジャイアンツは……。今日、雨で試合が中止になって逆に監督や選手は喜んでいるんじゃないですか」 「戦力はあると思うんですが、どうして勝てないんでしょうか」と進行役のアナウンサー。 「それ、私に言わせます?」と解説者はおどけて言う。  リスナーからの電話も入る。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加