序 人生から完全に消え去る試みについて

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「今ならうまく言っておいてあげるから、連絡しなさい」  気持ちはうれしいが、一度出したメールを戻すことはできない。  ラウンジに客は少なかった。ぼく以外には、老女が一人いただけだ。茶髪で眉毛の細いウエイターが、少しも減っていないぼくの水を注ぎにやってきた。朝食を食べ終わってから、水を注ぎに来たのはそれで三回目だった。老女がウエイターに話しかけた。「あなたいくつ?」。彼女はそうやって午前中をつぶすつもりにちがいなかった。  ラウンジを出て海辺へ降りた。海水浴には適さない、岩だらけの砂浜では、ぼくと同年代らしき父親風の男が、まだ歩き出して間もないであろう子供を遊ばせていた。蟹でも捕っていたのかもしれない。ぼくは自分がその年齢の頃どうだったかを思いだそうとして、完全に失敗した。その頃の記憶なんてほとんどないのだ。  三十分ほど歩き回ったあと、ホテルの自室へ戻った。部屋のクリーニングは住んでおり、昨夜書き散らした「亡命計画」のメモや、エナジードリンクの空き缶もきれいに掃除されていた。思い返せば、捨てられた亡命計画の中身は、焼却されて仕方のないものばかりだった。  人生から完全に亡命するために、必要なことはなんだろうか?    一、太い縄を準備します。     
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