序 人生から完全に消え去る試みについて

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 だ。前例はどんな形で参照できるか。豆知識なら検索するだけで十分だが、今回はぼくの人生がかかっていた。信頼できる文書。それは書籍の形になっているはずだ。書籍が発行されるまでには、何人ものプロの目を通っている。その内容にあやまりがあれば、著者や担当者、悪ければブランドごとダメージを受ける。したがって、関係者はみな書籍に含まれた情報を、納期のゆるすかぎり真実に近づける努力をしているはずだ(もしかすると、その部分はサービス残業かもしれないが)。ここが、根本的にウェブ上の情報とちがう点である。ウェブの情報は、せいぜいインデックス代わりに使うのが正しいやり方だ。そこで、調べてみると、近くに大型の書店はないものの、改築したばかりの図書館があることが分かった。ぼくは、ホテルの部屋をあとにした。  レンタカーに乗り込み、空き地とコンビニしかない地帯を走り抜ける。ナビが図書館まであと5分と告げたあたりで、ひときわ大きい空き地に大きな明朝体の看板が設置されているのを目にした。 「仮設予定地」  車のなかからは、その下に書かれていた細かい文言は読み取れなかったが、ぼくの頭のなかには、亡命についてのある考えが浮かんでいた。それは、言葉にすればこのようなものである。 「人生から完全に消え去り、存在しないはずの世界へ亡命したい。これは人間にとって、普遍的といってもいい欲望である。ぼくもその欲望に突き動かされている。もし、この亡命がほんとうに可能だとしたら、それを達成した人間がすでにいるはずだ。ぼくはその痕跡を見つければいい。彼は、自分の達成が未完成であると知ったなら、痕跡の削除と引き換えに、亡命の方法を教えてくれる可能性はある。ただし、このぼくを殺して痕跡を消す、という選択肢を別にして……」    ぼくのこの考えは、後から振り返ってみれば、ずいぶん正しかった。
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