1 海竜

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1 海竜

  真っ黒な海が、さざ波ひとつ立てず、鏡のように凪いでいた。  夜の闇と境目のない漆黒の海の上を、眩しい漁火が、ディーゼル音を響かせながら通り過ぎていく。 「おいそろそろじゃ」  年老いた漁師が、舷側から海を覗き込みながら、操舵室に声をかけた。  短く刈り込んだ強(こわ)い白髪に、皺の奥まで日焼けした赤茶けた顔は、長い日々、潮にさらされてきたことを物語っている。  大きな腰が、ずっしりと甲板を踏みしめ、固太りした頑健な肉体は、七十という年齢を感じさせない。 「ゆっくり南東に向けろ」  老漁師の吾郎が、再び声をかけた。  声に応じて、エンジンの出力が下がり、福寿丸と書かれた船首が、探るように面舵を切っていく。  福寿丸は、しばらくの間、黒い鏡面の海を、ゆっくりと進んでいった。  ディーゼルの響きが、静まり返った闇の中に吸い込まれていく。 「・・・」  吾郎の真剣な眼差しが何かを見つけ、大声を上げたのは一時間も経ってからだろうか。 「ここじゃ、東吾来い」  東吾と呼ばれた若い漁師は、ゆっくりと操舵室から出て来て、吾郎の傍らから海面を覗き込んだ。     
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