第1章

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 美咲さんのことも騙すつもりでいた。  彼女を見た瞬間、いけそうだと思った。純粋で人を信じやすいタイプ。困っている人を見たらほっとおけない優しさを持っている。だから、彼女の方から近づいてきたときには、手間が省けたと嬉しくなった。  おれがパン屋を開く話も、もちろん嘘だ。美咲さんに見に来てもらったお店は、ただの空き店舗。オーナーや不動産屋に連絡はしていない。だから、外から見せるだけにとどめたのだ。  だけど、パンを探していた本当だ。子供のときの揚げパンのエピソードも嘘じゃない。実際にあちこちのパン屋に行っていた。 『ペンギンベーカリー』は、たまたまおれの借りたウィークリーマンションの最寄り駅近くにあった。だから、よく通うようになっていた。だが、会社に行く前に寄っていたのではない。いつも遊び回った後の朝帰りのときだった。  いつ死んでもいいと思いながら、好き勝手に生きてきた。人を騙し、奪い取った金で贅沢をした。酒、女、ブランド品などに金を注ぎ込み、楽しんだ。  いや、楽しんだ気になっていただけかもしれない。いつも心の中に埋めることのできない空洞があり、ぬぐい去れない虚無感があった。  結局、美咲さんに救われたのかな。大げさに言えばそういうことになるのかもしれない。騙すつもりだったのに、あんなに一生懸命になられたら、さすがにおれだって……。  結局、今回の仕事は失敗に終わったが、代わりに得たものがある。  もう何年も、こんなさわやかな気持ちで目覚めたことはない。  今朝、留置所の食事にジャムとマーガリンのコッペパンが出された。なんてことのないパン。それが、これほどうまいものだったのかと思った。  空気の匂い、水の味がわかるようになった。光の移ろいや季節の変化を感じるようになった。  日常のありふれたことに感動できるようになっている。もし、計画通りに詐欺を働いていたら、この感覚は味わうことはできなかっただろう。  もう美咲さんに会わせる顔がない。でも、もし彼女が許してくれるなら、罪をつぐなった後、彼女の作ったパンを食べに行きたい。その目標さえあればおれは生きていけそうな気がする。      * 「今日も来なかったね」  朝の忙しい時間が過ぎ、お客様の姿が減った頃、ハルカがぽつんと言う。 「うん」美咲は力なく答える。
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