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美咲は頭を深々と下げ、できるだけ心を込めて謝る。
青山は空のトレイとトングを持ったまましばらく考えた後、ぽつんと言った。
「自分でもわからないんです。食べたいパンがあるのは確かなのですが、自分でもそれを思い出せないんです」
青山はとても寂しそうにそう言った。その表情を見た美咲は、まだ名前も知らないのに、この人の力になりたい、寂しさを少しでも癒してあげたいと思った。
「よかったら、もう少し詳しくお話を聞かせてくれませんか?」
美咲はまっすぐ青山の目を見ながら言った。
*
その日のランチタイム、時間を合わせ、美咲と青山は近所のファミレスで会うことになった。
「ちょっと不思議に思っていることがあるんですが、聞いていいですか?」
美咲を香辛料が効いた、色目も鮮やかなタイカレーを注文し終えると、さっそく青山に言った。
「なんでも聞いてください」青山は真っ直ぐな目をして答えた。
「例えば、今日はカレーが食べたい、とか、晩ご飯はお鍋がいいとか、食べたいものがあるときは、普通、具体的な料理が頭に浮かぶと思うんです」
「そうですよね」青山が頷く。
「なんとかく好きだったパンがあったな、というくらいの気持ちでは、青山さんのようにずっと探し続けたりはしないと思うんです」
「確かに、おっしゃる通りですね」
青山はそういうと少し考えた後、
「ぼくの場合、そのパンに何か大切なものがあるような気がしてならないんです」
「大切なもの?」
「ええ、幸せの記憶とか……。ぼくが育ったのは夫婦喧嘩が絶えないひどい家庭でして、いつもビクビクと不安を感じながら過ごしていました。だから、子供の頃の楽しい記憶がまったくないんです。嫌なことばかり思い出される。でも、ぼやっとはしているんですが、温かい気持ちが呼び起こされるものがあるんですね。それがパンであることは間違いないんです」
「なるほど」
「社会に出てからも、人間関係がうまくいかなかったりして、何度も転職をくりかえしました」青山は唇を噛んだ。
「もちろん自分が悪いんですが、その幸せな記憶に辿りつけば、人生をやり直せる気がするんです」
「それはなんとなく、わたしにもわかります」美咲は青山に同情した。
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