21人が本棚に入れています
本棚に追加
4「二枚証文禁止」が江戸前芸者のプライドだった
もう一つ、東京の花柳界と地方の芸者の大きな違いは歴史的なシステムの違いがある。「二枚証文」の有無である。
現代では素人と玄人の境界線は全く朦朧としているが、戦前の日本では、玄人女と素人女とは、住む世界がきっぱり切り離されていた。さらに玄人にも二種類ある。「芸者」と「女郎」である。
明治維新後、芸者と女郎は国から鑑札(ライセンス)を貰わないと営業できない決りとなった。その時から芸者は「芸妓」、女郎は「娼妓」と呼ばれるようになった。前者は「エンターティナー」、後者は「セックスワーカー」である。
吉原という遊里において、芸能と売春は分かちがたい歴史を辿っているが、江戸では廓の規模が大きいので、伝統として「芸者」と「女郎」は客をきっぱり分けた方が利が大きかった。芸妓、娼妓はそれぞれが、雇い主(置き屋)と、「芸妓証文=芸を売り物とします」或いは「女郎証文=性を売り物とします」という契約書を交わす。その時、証文は1人の女につき、どちらか一つしか申請できない。つまり、東京に限って、1人の女は公には、「芸者」か「女郎」かどちらにしか成れず、兼業は禁止されていたのだ。
ところが東京以外の殆どの地方の花街では、1人の女は雇主と「芸妓」と「娼妓」二枚の証文を同時に交わすことを許した。これを「二枚証文」という。実は祇園も、基本的には二枚証文を許している。
つまり、日本全国の多くの芸者街では、建前は芸者でも女郎を兼業できるシステムだった中、東京では、プロの芸者は身を売る商売は、許されなかったのである。それが「江戸前芸者は芸しか売らない」の誇りとなっていったのだ。
しかし、どんな世界でもアウトローはいるわけで、そういう芸者は「転び芸者」「まくら芸者」として蔑まれ、一流地からは締め出された。逆に、そういう芸者が居る、と噂のある円山町や五反田などは、それ目当ての集客があったわけである。
芳枝が生きてる頃、筆者は「おばさまの赤坂時代の源氏名ってなんて言ったの?」と尋ねたことがあった。すると芳枝は「源氏名ですって?」と血相を変えた。何事かと驚く私に、「源氏名なんて、持ったこと金輪際ないわよ!源氏名ってのはお女郎の使う名でしょ?芸者にはお座敷名(オザシキメイ)はあるが源氏名なんてもんは有りませんよ!」と非常な剣幕で怒られた。私の無知からとはいえ、プライドが傷ついたのだろう。
芳枝は、そんな、一般人は全く計り知れないプライドを、たくさんたくさん、持っている人だった。そこに触れると、姪の私に対しても容赦なく怒った。堕ちれば底なし沼の花柳界で、彼女が身の支えにしてきたモノは、そういう儚い自負心だった。筆者は、芳枝のそれを可笑しいと思いつつも、美しい、愛おしいと思いもした。彼女が亡くなって随分経つが未だに懐かしく思い出す。
最初のコメントを投稿しよう!