6、東宝争議

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ある程度、要求を会社側に飲ませる形で 一旦治ったかのように見えた東宝争議だったが 組合は日本共産党と結びつき 以後48年まで もっと大規模な闘争となってゆく。 さて、新婚の昭治は 信子と暮らす下北沢から 成城学園前にある砧撮影所に通っていた。 昭治30年代以降、映画スターが住み出して 全国的に名が知れるようになる 「成城学園前」という場所は 大正時代に小田急が学園を誘致し 住宅地として開発した。 戦前は柳田国男などの有名な学者 外国人の大学教授などが住む 静かで文化的な学園街だったらしい。 その前は、砧(きぬた)村という 広大な農村の一部で 畑、雑木林の台地 武蔵野崖線の下は湿地が広がる 長閑な場所だった。 戦後、住宅地に戻りかけたところを 今度は撮影所の組合員がバリケードを建て 大声をがなり立てて運動する。 冷戦に向かう時代で アメリカは共産党の日本での肥大化を 極端に恐れていたため 戦車まで繰り出してコレを鎮圧した。 東宝自体も内部分裂を起こした。 経営陣がガラリと入れ替わり 砧撮影所の職員のうち 運動に関わったとされた200人が 解雇されたのだった。 この混乱で東宝の映画の制作本数は 前年の半分になったらしい。 争議期間は撮影所は開店休業状態 必然、昭治の給料も 入社一年目で 聞いていた半分も、もらえない有様だった。 「そういうわけで… 映画会社の方は全く いつまともに戻るかわからないんです …下北沢の闇屋の仕事や アメリカ兵向けのジャズバーのバーテンで なんとか食い繋いでいますが 食うにも困る有様です この歳になって また姉さんに頼るのは心苦しいのですが」 芳枝は、自分の用意した祝儀を渡した。 「これは、あたしが初めから用意してた分 これで当面頑張りなさい さっきのお祝儀は ここのお母さんからのものよ。 堅気の家っていうのは 財布の紐が硬いのね、ビックリしちゃったわ」 芳枝は苦笑いした。 「それにしたって 労働争議ってのは 働くものが食べてくためにするんでしょ? 運動したって商売上がったりじゃあ なんのための争議なんだろうね」
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