5 柳橋で生まれ、柳橋の水で育つ

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5 柳橋で生まれ、柳橋の水で育つ

さて、話を芳枝に戻す。 芳枝は大正10年生まれ。柳橋芸者キクと銀座の時計屋の主人N氏との間に生まれた。2人がどういう経緯で出会ったのかは筆者は聞いていない。 梅の季節2月生まれだから「かぐわしい枝」で芳枝と名付けられた。  その体つきを、筆者は子供のころから一緒にお風呂に入って知っているが、細い首から上半身に全く「力」というモノがなかった。肩は極端ななで肩で襟足の長いうなじにホクロがあった。顔は、キクのような近寄りがたいような細面の美形というのではない。目鼻顔立ちは整っているが、芳枝はふっくらした丸顔で、どこか憂いのある可愛らしい顔立ち。戦後、すでに30を過ぎていた芳枝は、進駐軍の将校たちのお座敷で「ベッテさん」と徒名(あだな)されたという。アメコミの「ベティ・ブープ」に似ているということらしい。アメリカ人にはかなり童顔に見えたのだろう。 昭和27年 赤坂時代 芳枝 33歳頃c4e68521-bd7d-49ad-a0c6-dd1335e15022 筆者が子供の頃、一緒にお風呂に入ったり、芳枝が年取ってから着替えを手伝ったりする度に目にしたその体。乳の下から骨盤の上までの胴は子供の時から常に帯で締め付けられ細くくびれている。そして、その肌。実際見たのは、芳枝が50近くなってから92で亡くなるまでだが、芳枝のような肌を持つ女に、私は生まれてこの方出会ったことがない。元来「柳橋芸者」はおしろいを塗らないのを身上とする。そのかわり「肌を磨く」のである。  お風呂で体を洗う時、筆者が母に教わったやり方はタオルやスポンジに石鹸をなすって泡を作りそれで体をこすって洗う。現代の一般的な方法だろう。しかし、芳枝の洗い方は全く違った。  芳枝はまずお湯に石鹸を溶かして石鹸水を作る。そこに、柔らかい、きめ細かいガーゼの幾重にも重なった手拭いを浸し石鹸水を含ませたら、それで丁寧に撫でるように、体中に石鹸水を塗り広げてゆくのである。それをずいぶん丁寧にした後、ザッと湯で流す。最後に古くなった浴衣地でくるんだ「米ぬか袋」で、首から足の指の間までくまなく軽く擦る。すると、湯をかけ流した後の肌は、本当に磨き上げた象牙のように白く光るのである。その話を母にすると、「イヤらしいわね!そりゃ芸者は肌が売り物だからよ、堅気(かたぎ)の女はそんなことしませんよ、真似しちゃいけません!」と言った。確かに、母のゴシゴシと垢をこすり落とすような体の洗い方は、一日働いた体の汚れを洗うやり方で「堅気」に違いない。    芳枝の体つきは、現代の一般的な美意識からすると決して美しいプロポーションではなく、スーツやドレスを着こなすにはむしろ滑稽だろう。しかし50代の頃の芳枝の裸体を思い出すたびに、私は川端康成の「掌の小説」のある描写を思い出す。芸者屋に売られた少女の入浴を描写する「男の玩具になるように育てられた肉体」という表現だ。戦前の、子供の頃からしこまれた芸者というものは、金魚のように作られた生き物である。
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