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8 花柳界の荒波に乗り出して
津路は芳枝が3年前まで通った尋常小学校の「校医」で、年に一度の身体検査で見知っている「津路先生」だった。
小学校を卒業して2年経った頃、半玉としてお座敷に出ると旦那衆の中に津路先生がいた。「あれ、君は?」と声をかけられ、芳枝はうつむいてしまった。津路先生はお座敷でも大騒ぎするわけでもなく酒もあまり飲まない大人しい客だった。お座敷がはねた後、帰り際に芳枝に「君、成績も良かったのに、どうしてこんな所にいるの」と言われた時、芳枝は自分の身を恥ずかしく思わずにはいられなかった。(どうしてって…私だって、居たくてこんなとこに居るのじゃないのに)と怨むような気にもなる。そして反面、自分の身を案じてくれる津路先生を嬉しくも思った。
津路先生は度々お座敷で会うようになった。「おかあさんの体調はどう?」とか「ここの生活は厳しくないの?」と気にかけ、親しげに声をかけてくれる。
それがある日、水揚げの話を聞いたのである。
(あの津路先生に、水揚げされるなんて…)立ち聴きしたその場で動けなくなり、涙があふれて来た。裏切られたような、悲しみと悔しさの混じった涙だ。あの真心の有る優しい先生のまなざしの中に、男の触手が隠れていたのだ。自分が生まれる前に死んでしまったお父さんのことを思って慕っていたのに。涙が後から後からあふれてくる。花柳界の惨さを初めて思い知った瞬間だった。
芳枝は気を鎮め、息をひそめて襖の向こうに耳をそばだてた。どうもタツは、この話に乗り気ではないようだった。
まずは芳枝が16という年齢の割に体の発育が幼いということ。そして何より「町医者の妾より、もっといい話が有るだろう」という理由らしい。もっと高く売れる、ということだ。ほっとする芳枝であったが、いずれにしろ遅かれ早かれ売られるこの身は、自分の身であって自分のものではない、置き屋のおかみやタツが目を光らせて守っている自分の「純潔」は、大切な売り物なのだと思い知った。
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