8 花柳界の荒波に乗り出して

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2 坂井木工所の日常  栄依子の父、藤平は遠州農家の五男。13歳で東京に出て大八車などを作る車屋の小僧になり、今は木工所の主人となった。神田の葉茶屋問屋の娘、閼伽(ワカ)との縁談があり養子に入る。結婚後も仕事は順調だった。4人目の子供、登志子が生まれてすぐ一家は尾久に新居を求めた。ワカは7人の子供を産み、うち二人を赤ん坊のうちに亡くした。  藤平は職人だが商才があり、東京府(当時は都ではなく府)の水道局に繋がりをつけ、水道メーターの木箱を一挙に手がけたり、軍に繋がりを付けて軍需工場に乗り出すなど広げ、栄依子が小学校に上がる頃、自宅続きの木工場には職人を4、5人抱え、住み込みの小僧が2人いた。近所の六軒長屋を次々と五棟買って、30以上の店子を抱える大家となった。  朝起きるとワカはすぐ顔を洗い着替えて、鏡台の前で資生堂のオイデルミンをピタピタ両頬につけるだけでお白粉や口紅は付けなかった。「かみいさん(髪結いさん)」で3日おきに整える夜会巻きを撫で付け、飛び出したシャグマを櫛を使って器用に押し込み、小さな翡翠の後ろ挿しを一つ挿した。子供たちの身につけるものはまめに新しいものを買ったが自分の普段着は一枚で、割烹着だけ清潔な新しいものを付けていた。割烹着は薄く糊づけしアイロンでしわ一つなく仕上げられている。  子供たちにとっては藤平が甘えさせ役で、ワカは甘くなかった。彼女は「駿河台の女学校を出ていてること」と「神田の生まれ育ちである」ことに誇りを持っていて「近代的な教育を受け、東京風でモダンなセンスをしている」という自負が強い。当時、家庭料理では珍しいバターや牛乳を使う洋食も良く作ったので、坂井家の子供たちは体つきがしっかりしていた。情操教育と称し「こどものくに」や「赤い鳥」などの児童文学雑誌、「世界子供童話全集」などを揃えた。話題となる教育的映画、宮沢賢治の「風の又三郎」やドイツ映画「オーケストラの少女」を子供たちを引き連れて観に行った。言葉遣いに厳しく、二言目には「長屋の子と遊んではいけません」と言う。藤平は晩酌しながらラジオで廣澤寅蔵を聴くのが好きだったが、ワカは機嫌がいいと台所仕事をしながら浅草オペラの「カチューシャの唄」や「アラビアの歌」、女学校で習った「シューベルトの野薔薇」を唄った。    
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