東京 川辺の物語

3/105
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/105ページ
 誰かの叫び声で群衆が一斉にそっちを見た。「十二階」とは浅草の六区にそびえ立つ「凌雲閣」のこと。地上12階の商業タワーで、モダンな東京の象徴でもあった。それが今、飴細工か何かのようにグニャリとひしゃげ、炎と黒煙に巻き込まれている。タワーの足元一体は吉原以上の悪所と言われる通称「12階下」。「銘酒屋」と呼ばれる間口一間の妖しい二階屋がびっしりとひしめく私娼窟。それが今まさに、歓楽の象徴「十二階」もろとも地獄の業火に包まれて、音を立てて燃え落ちるところだった。「お女郎たちは逃げたかね」とオタツが呟いた。  浅草が燃えていた。観音様も仲見世も、六区のオペラ座、役者町、後ろに広がる吉原遊郭、全てが炎に包まれ黒煙を挙げ、ゆっくりと崩れ、灰になっていく。それは生きた「江戸文化」の消滅の瞬間でもあった。 その時、突風と言っていいような圧の有る熱風とともに「十二階」が溶けるように崩れた。地響きのような轟音。4歳の芳枝は思わず袖で顔を覆い、わあと叫んだ。つないだ手を放したので、キクは「こら!手を離しちゃだめじゃないか」とひっつかむように芳枝をひきよせたが、キクの声も手も震えている。 「こわい!」夢中でここまで歩いてきた4歳の芳枝は堰を切ったように泣き出した。買ってもらったばかりの桃色の鼻緒の駒下駄はいつの間にか脱げて裸足だった。これも買ってもらったばかりの赤や水色の朝顔を染めだした気に入りの振袖浴衣も、煤と土で汚れていた。  勝野が芳枝をひょいと抱きあげた。 「芳枝、泣くンじゃないよ」 大きな手で頭をなでる勝野の顔はいつも通りの笑顔である。 「よく歩いたぞ、上出来、上出来」 この男の一番の長所は、底知れぬ楽観主義と自信である。自分に不幸など無縁であると、心の底から信じているのである。資産家に生まれつき、際立った容貌と体格に恵まれ、仙台一校から東京帝大という輝かしい学歴。勝野勝(かつのまさる)という名前通り、「負ける」という概念が彼にはない。
/105ページ

最初のコメントを投稿しよう!