1、大正13年 関東大震災で消えた「江戸」

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芳枝の叫び声で、逃げ急ぐ群衆も一斉にそっちを振り返る。 「十二階」とは浅草の六区にそびえ立つ「凌雲閣」のこと。地上12階の商業タワーで「東洋の摩天楼」としてモダンな東京の象徴でもあった。それが今、炎と黒煙に巻き込まれている。タワーの足元一体は、吉原以上の悪所と言われる通称「12階下」。「銘酒屋」と呼ばれる間口一間の妖しい二階屋がびっしりとひしめく私娼窟だった。それが今まさに、歓楽の象徴「十二階」もろとも地獄絵のような業火に包まれていた。「お女郎たちは逃げたかね」とオタツが芳枝を抱き寄せ呟いた。 上野の裾野に広がる浅草も燃えていた。雷門、観音様も仲見世も、六区の役者町、後ろに広がる吉原遊郭、全てが炎に包まれ黒煙を挙げ、ゆっくりと崩れ、崩れていく。それは生きた「江戸文化」の消滅の瞬間でもあった。 人々が呆気に取られているその時、突風と言っていいような圧の有る熱風とともに「十二階」の先端が、ゆっくりとひしゃげ、崩れ始めた。と同時に、鈍い地響きが足元に伝わる。4歳の芳枝は思わず袖で顔を覆い、わあと叫んだ。つないだ手を放したので、キクは「こら!手を離しちゃあダメじゃないか!」とひっつかむように芳枝をひきよせたが、キクの声も手も震えている。 夢中でここまで歩いてきた4歳の芳枝は堰を切ったように泣き出した。買ってもらったばかりの桃色の鼻緒の駒下駄はいつの間にか脱げて裸足だった。朝顔を染めだした気に入りの振袖浴衣も、煤と土で汚れていた。 すると、背の高い勝野が、泣いている小さな義理の娘芳枝を、をひょいと抱きあげた。 「ほら、泣くンじゃないよ」 大きな手で頭をなでる勝野の顔はいつも通りの笑顔である。 「よく歩いた、上出来、上出来」 声には明るい力がみなぎっている。この男の一番の長所は、底知れぬ楽観主義と自信だ。資産家に生まれつき、際立った容貌と体格に恵まれ、仙台ニ高から東京帝大という輝かしい学歴。勝野勝(かつのまさる)という名前通り、彼には「負ける」という概念はない。自分に不幸など無縁であると心の底から信じているのである。 勝「旧制仙台ニ高」時代 のち東京帝大に進学d7026960-d639-4b13-b9b8-e1fea485c960
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