1、大正13年 関東大震災で消えた「江戸」

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「芳枝は運が強いぞ、上出来だぞ」 そうなのだ。芳枝は、運が強かった。 生まれつきは決して恵まれていない。「芸者の子」として財産も後ろ盾も無く、肉体も頑健ではないのだが、器量には恵まれた。時に運命に流され、もみくちゃにされながらも何かにしがみつき、何かに助けられ、大正、昭和、平成まで93年間、女1人、生き抜きぬくこととなったのだから。 さて、震災の騒ぎが落ち着くと、焼け落ちた「江戸の残骸」を肥やしに、東京はみるみる復興していった。大正から昭和へ、浅草も銀座も人の服装もすっかりモダンに生まれ変わった。「江戸」ではない、「東京」の幕開けである。 芸者時代に勝野と出会ったキクは、すぐに芸者を退き、麻布区芝の勝野の屋敷に移り住み、二人の子供、マキ子と昭治を産んだ。芳枝は、キクと前夫との子供で、その時、数えの8つ。祖母のオタツは「連れ子扱いされては不憫だ」と芳枝を芝の屋敷にはやらず、手元から離さないと言い張った。キクも、生まれた時から柳橋の水で育った芳枝を、麻布の生活の中に置くのは何か可哀そうな気もして、タツと妹のハナに託すことにした。以後、親密に関わりながらも、キクと芳枝は親子として一緒に暮らすことは生涯なかった。 キクが芝に移ってからも、勝野は度々柳橋の炭屋に訪ねて来た。タツに何がしかの金を持っていくのと、芳枝を遊びに連れて行くためである。 芳枝は子供ながら、花柳界独特の水が身に染みついた少女に育っていた。三味線と踊りは、物心つく頃から馴染んできた。学校でも外で遊ぶことはあまりないので肌はますます白く、同じ年ごろの子供のように顔が汚れたり手足の爪が伸びていることはなかった。夏の浴衣までも振袖で学校に通った。さらに大人の間で育ったので人見知りもしない。大人のようなコマッシャクレタ物言いをした。それが、仙台生まれの勝野には、都会的で可愛く見えた。 玄関先に人が来るとモノおじしないですぐに出てくる子供を、東京の下町では「オタバコボン」と称した。客には、お茶より先に煙草盆を出してやるのが、江戸の風習だったからだ。筆者も小さい時、叔母の芳枝に「この子はオタバコボンだよ」とよく笑われた。人見知りがなかったからである。 勝野は芳枝が小学校から帰るのを待っていて、銀座や浅草を連れ歩いた。そういう日は三味線や踊りのお稽古もお休みしていいので、芳枝も喜んでついて行く。
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