1、大正13年 関東大震災で消えた「江戸」

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「今日はテキを食べようか」 と勝野が言う時は銀座のライオンでビフテキを食べる、という意味だ。(お肉なら浅草の「松喜」か「ちんや」のすき焼きのほうがいいなあ…)でも芳枝が一番好きなのは、普段、炭屋では誰も食べない洋食だった。 「…あたし、資生堂のオムライスか、ヨシカミのハヤシライスがいいわ」 口調は大人のようだが、考えていることは子供である。観音様をお参りして、仲見せでおもちゃを買って、「ヨシカミ」でオムライスを食べたいのだ。 「銀座より浅草かい?じゃ、そうしようか」 勝野はおかしそうに笑う。 芳枝はえくぼを作って無邪気に頷いた。 この笑顔が勝野を慰める。 つまり芳枝から母親を奪ってしまったという罪悪感が和らぐのだ。こんな義理の父娘の親密さを、勝野は楽しんだ。 おねだりが叶った時の屈託の無さは、もちろん芳枝がまだ子供だからではあるが、実は彼女は大人になってもそういうところがあった。甘え上手と言うのは「男に甘えて利を得ること」が生業(なりわい)の花柳界では「女の美徳」である。「美貌」と「意気地」の芸者だった母キクは、男に甘えることが苦手であった。これは「芸者」としては欠点なのだ。 勝野がどんな豪華な贈り物をもってしてもキクを芯から喜ばすことはできなかった。静かな微笑みの裏に(でも、私が欲しいものはこんなものじゃない)と言う「真っ直ぐな女の瞳」があった。外見の華やかさとは裏腹に、キクには(私は刹那的に贅沢を楽しむような『花柳界の女』ではない。正妻として扱われるべき真っ当な女だ)という気があり、勝野はいつも、それを喉元に突きつけられている気がした。まだ大学を出て数年の勝野は、経済的には裕福な実家の庇護下にあり、一族郎党の反対を押し切ってまで「芸者」を妻に貰うのは荷が重過ぎたのだった。勝野との思い出は、芳枝の中で11、2歳で終わっている。その頃、勝野は、家業の仙台での鉱山事業を継ぐことに飽き足らず、二度目の選挙活動に身を投じた。一度目の東京府議選は、当選し一期務めた。2度目の選挙では、5歳になっていたマキコと2歳の昭治を屋敷に置いてキクは連日あいさつ回りと後援会に顔を出し、選挙活動を手伝った。 その選挙の落選が、彼女には過酷であった。間もなくキクは微熱が続くようになり「肺浸潤(初期の結核)」と診断される。
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