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2、江戸前芸者とS家の女たち
さて、わがヒロイン、芳枝の生まれたS家について、ここで書いておこう。
芳枝の弟、筆者の父、昭治(しょうじ)の生まれた家は現在の東京タワーの足元、港区芝(当時は麻布区)であるが、本籍地は「東京都台東区柳橋1丁目1番地」。それを60歳に近くなってから当時住んでいた世田谷に移した。その理由を栄依子(昭治の妻、筆者の母)は「余りに可哀そうだから」と説明した。つまり「柳橋1丁目1番地」という土地がまさしく花柳界のど真ん中と知れるから、堅気育ちの栄依子から見ると(出自が知れてかわいそう)という意味なのだ。柳橋一丁目というのは、昔の東京人なら、それと判る地名なのである。
昭治の家を家系図に書くと女ばかりが出てくる。
なぜ女ばかりかというと、まずは正式な結婚をしているものが少なく
経済も女が背負っているからである。当時「芸者」とは、女が唯一経済的に自立できた職業だったのだ。
話は筆者から3代さかのぼって幕末、「曾祖母タツ」から始まっている。
『一つ話』として、筆者が何度も聴いたエピソードがある。今となっては真実か確かめようがない。それによれば、タツという人は元々は房州(今の千葉)中山の在の名主の娘だという。その名主の娘が、男前の作男(サクオトコとは何か?名主の土地を借りている小作農夫のことか?)と恋仲になって駆け落ちをし、ゴイッシン後まもない東京に出た、という。この「ゴイッシン」というのは明治維新のことを指すらしい。
イケメンだが身分違いの作男(名前不明)と駆け落ちした庄屋の娘、おタツさんは、かなり自由奔放な気の強い女性だったろう。二人が明治初の東京でどういう暮らしをしていたのかは知らないが、江戸時代の「人は生まれ在所にとどまらねばならない」という厳しい規範が明治には崩れ、人の流動が生まれた。それは非常に自由な空気があったろう。駆け落ちした若い2人は何を家業にしたか不明だが、二人の間に生まれた4人姉妹、ツル、キク、ハナ、トク、をみな芸者に仕立てたこと、これだけは事実である。
江戸の芸者町は「粋な旦那衆の社交場」から明治に入って一気に「全国区の社交場の中心」へと躍進した。中央政府を握ったのが、薩長という地方出身者だからである。
特に柳橋と新橋(今の演踊場がある辺りから銀座あたり一帯)とを合わせて「二橋(ニキョウ)」とよび、政界財界を客筋として最高級の社交場として隆盛し、昭和に入ってからは軍関係の官庁が近い赤坂が隆盛した。
観光ではない、社交場、遊び場としての東京の花柳界は、現在はほとんど消滅した。昭和の政治家の密談の舞台であり、口の固い女がいるのは赤坂の料亭だったが、海老蔵の事件で知れたように、歌舞伎役者や角界の親方さえ、今は芸者でなど遊ばずに、六本木や銀座のクラブで遊ぶ。
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