2、江戸前芸者とS家の女たち

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 キクが生まれた明治後期、「二橋(柳橋、新橋)」で芸者デビューするには生まれつきの容姿はもちろん、三味線、唄、踊りの高度な芸を身に着けていることが条件であった。特に柳橋は「芸」に厳しく、京都の祇園に倣って、東京で初めて「芸者学校」なるものを創設した。10歳前後の見込みの有る少女を数年、コストと時間をかけてエリート芸者に訓練する養成所だ。  そのように仕込まれ、磨かれ、15、6歳でデビューした「江戸前芸者」は、今でいうところのトップアイドルである。資生堂はじめ、クラブ化粧品など有名化粧品のイメージキャラクター、百貨店のポスターモデルもする。ブロマイドは東京土産として売られる。芸者がモデルのブロマイドは驚くほどバラエティに富む。女学生風のお下げ髪から、白い膝丈のテニスウエア、縞々ニットの水着姿、ビロードのドレスに身を包んでバイオリンを手にした良家の子女風まで、今でいうコスプレをしている。メイクもヘアスタイルも人気芸者たちから流行が生まれ、上流婦人がそれをまねた。  また「二橋」の客筋は、一般庶民の女性が、話す機会もない社会的地位の男性ばかりだから、女にとっては良縁をつかむハイウェイでもる。有名なところでは、伊藤博文の夫人が元新橋芸者、近衛文麿の夫人が元柳橋芸者である。ただし、正式な結婚まで辿り着くのは非常に稀だった。なぜなら「玄人」と「素人」の境界線は、現在よりずっとはっきり引かれていて、一度玄人の世界に入ったら、死ぬまで「芸者上がり」というレッテルがついて回ったのだった。 さて、おタツ夫婦が、その玄人の一線を越えてまで娘を全員芸者にしたとはどういう理由だろうか。よほど金に困ったか、あるいは娘たちの器量が特別に良くて熱心にスカウトされたのか。筆者は、その両方だったと推察している。 姉妹のうちキクは、柳橋芸者として一番名が知れたが、皮肉なことに、彼女は生涯花柳界と芸者的生き方を嫌った。それで晩年は、花柳界隈でずっと生きた姉妹とも交流を絶った。  キクは、十代半ばで半玉(はんぎょく。芸者見習いの少女のこと。芸者のお座敷出演料を玉代と言うが、見習い期間中は出演料がまだ半分のためそう呼んだ)として柳橋に出てすぐ評判となった。美貌もあるが、踊りが上手く、当時の女性としてはスラリと上背があり映えたそうである。 アサヒグラフ、婦人クラブなど雑誌のカバーガールをつとめたり、今でいうキャンペーンガールとして東京初の飛行機の遊覧飛行で空を飛んだりもしている。つまりモデル業も兼業した。一本の姐さん(一人前の芸者)になってからは「踊り」で売った。そういった「身内の言い伝え」が客観的真実かどうかはわからない。しかし手元に残る写真に依ると、美貌の持ち主だったのは確かである。    
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