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3 明治維新〜昭和高度経済成長までの東京花柳界番付
現在の東京三業組合(花柳界組合)に、明治初年の「花柳界 花代(ハナダイ)表」というものが残っている。「花代(ハナダイ)」とは「玉代(ギョクダイ)」ともいうが、芸者一人当たりのお座敷出演料、ギャラのことだ。
1等地 花代1円 新橋、柳橋(あわせて二橋と呼ぶ)
2等地 花代80銭 日本橋、霞町、新富町、数寄屋橋
3等地 花代50銭 からす森、吉原
4等地 花代30銭 深川、神楽坂
5等地 花代不明 赤坂、向島
※1円は現在の4~5万円に相当
霞町に芸者町があったのか!と色々驚くのだが、同じ文献に、明治初年の「柳橋の客筋」について
商5(実業家、相場師、銀行家)
ひげ3(政治家、軍人、弁護士)
雑2(役者、力士)
とある。分類の名前が洒落てる。歌舞伎役者や力士、今で言うなら有名芸能人やスポーツ選手もかなり柳橋で遊んだことがわかる。
驚くことに、戦後最高級の花柳界となった赤坂は、明治の初年ごろは「5等地」の格付けで、ハッキリ言って花代不明の場末(ばすえ)扱いになっている。今はなんとなく気取ってる神楽坂も4等地だし、向島は未だに高級感はない。ここに載ってない渋谷の円山町や五反田は昭和初期から流行ったらしいが、当時から枕芸者(まくらげいしゃ)」(後で説明します)の居るので有名で、その流れで連れ込み宿ができ、それが今のラブホ街に繋がっている。
その他にも、東京にはこの格付け表にも載らないような小規模芸者町が多く有った。筆者の住んでいる世田谷区にも、二子玉川に10年くらい前まで、料亭街の痕跡があったが、生前の芳枝にそのことを話したら「玉川?そんなとこの芸者、見たことも聞いたこともないわ!」と剣もほろろ。そんな芸者と同じにしないででおくれ!という、悲痛なまでの叫びが言外に垣間見えた。
調べてみると昭和のバブルくらいまでは、日本全国、人出が見込めるところならどこでも芸者が居て、宿場には宿場客相手の芸者、漁師町には漁師相手の芸者、温泉地なら温泉芸者、炭坑町なら炭坑夫相手の芸者が居て、同じ「芸者」でもまさしくピンからキリまで。それゆえ柳橋や赤坂の芸者は「一流である」ことに必死に、殊更に、こだわる必要があったということだろう。
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