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「ほら。よそ見しないの」
掛け声の後、肌を叩いたような乾いた音が響く。
「キスして。……私も彼もさすがに人に見せる趣味はないの。忘れなさい。アナタのためにも――」
声だけでは“アナタ”が誰を指しているのか分からなかった。
続けられる情事の最中に漏れる吐息。色濃く感じる甘い香り。
正論だ。いいモノ見せてもらったことだし、そろそろ帰ろう。
これで少しは彼女も、無償で人前で“いい顔”をしなくなることだろう。
数日の退屈しのぎが数十分で終わってしまったのは、いささか残念ではあるが、
「……」
あれ? 早く帰ろう……
見下ろす廊下が不思議なことに背が縮んだかのように見えて、その場から動けなくなってしまった。
何、心配してるとか? 俺が? 彼女の? ハンッ。もう、いいってこーゆうの。どうせ誰もいないところで大泣きして、仲のいい友達に愚痴をこぼすんだろ。ほら、裕介クンだっけ? アイツ。アイツがいいじゃん。
――偽善者。
彼女には二人を軽蔑し、拒絶する権利がある。
……すればいいじゃん。しなよ。
「なんで……」
権利を破棄し、哀れむどころかしっかりと両足を地につけて前を見据える磯野さんに、ギリギリと奥歯を鳴らした。
彼女は、口元に手をあてがっていたが、一度だって二人から目を背けたりしなかった。
「ああ、もうっ!」
例えば。
今の現状が、本橋クンを真実の愛に目覚めさせる伏線だったとしてもだ。
例えばだよ? 伏線は伏線でも、俺が磯野さんの目を覚まさせるシナリオのほうが断然、萌えるんじゃない? なんたって、王道ヒロイン体質の持ち主だ。
NTRは興奮するけど俺だって基本、胸きゅん派なんでね。
彼女にだって、一方的に言われる筋合いはないはずだ。
「待って! いそ……」
本橋クンの声が磯野さんを追いかける。
“眞野”がヒーローを気取って表舞台に立つ柄ではないけれど、俺も彼女に救われたうちの一人か。
くすり、と笑みをこぼしながら前髪を上げる。さながら、食指が動いたってことで。妙な自信を持って俺は胸を張っていた。
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