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声もかけずに手首をつかんだ俺に、磯野さんは目を丸くして左右に大きく口角を伸ばした。
叫び声を上げられる直前で、その口を塞ぐ。抵抗する隙を与えることなく、彼女を二人の気配が感じられなくなる場所まで引っ張ってきた。
午前中までは本橋クンにお似合いだと思っていたきょとり顔も、今は無性に腹を立たせた。怒りをベタ貼りした笑顔の下に隠しながら、磯野さんが叫び声を上げないことを慎重に確認して、ゆっくりと彼女を解放した。
案の定、磯野さんは前髪を上げた俺を眞野恭賀とは認識していなかった。
一連の出来事を見ていたことを匂わせると、磯野さんは唇を噛んだまま顔を真っ赤にした。組んだ指先をもじもじと遊ばせ、視線をそらす。
俺が誰かに何かをする時は、見返りがある時だけ。
くす……
「え?」
うわ、我ながら打算的。キミがいつも花が咲いたような顔で笑ってるから、ちょっとそれが移っただけだよ。だから、本橋クンだって――
お金の為と割り切って、それなりに隠そうとしていたみたいだったけど、完全に心を殺せていなかった。
「忘れなくたっていいじゃん。いくら先生だからって、個々の感情まで指示してくんなっつーの」
「!」
「あ……」
今更、悲しいんでもいいんだと顔を歪められる。
……ちょっと。キミのことで腹立ててあげてんだけど。
彼女との温度差を感じた俺は、咳払いで場を誤魔化した。
「どこの誰とは存じ上げませんが、連れ出して下さってありがとうございました」
俺の顔を見ないままなのは彼女なりの気まずさとして、ぽそぽそと磯野さんは呟いた。
ありがとう?ああ、俺……お礼を言われるようなことしたんだ。
「でも、どうして助けて下さったんですか?」
彼女の首が小さく傾げられる。
「どうして?」
「はい」
磯野さんが今井先生と話していた時の本橋クンの表情を想像してみた。
彼女ではなく、本橋クンを。
大切な人が離れていくのを仕方ないと見送る。怒りとも悲しみとも言えない、やるせないような顔を俺は知っている。
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