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その日は何も手に付かなかった。
現文の時間には先生に指名されていることに気付かずに注意され、得意なはずの数学では簡単な計算を間違えて正しい答えになかなか辿り着かなかった。
彼女のことが頭から離れなかったからだ。
あれは本当に彼女だったのだろうか。それとも、考え過ぎてとうとう白昼夢まで見るようになってしまったのだろうか。
彼女は夢に見る少女そのままの姿をしていた。
もし、夢が僕の記憶を再現しているものだとすると、彼女は僕よりも年上のはずだが、とてもそうは見えなかった。
それに、街中のアスファルトを裸足で歩いていた、というのも、考えれば考えるほど、現実的ではない。
それなのに、道路を挟んだ向こう側で笑った彼女の顔が、僕の頭からは離れなかった。
その夜はなかなか寝付けなかったが、本を読んでいる間に寝落ちしてしまったらしい。
いつもの通り、幼い僕は少女と手を繋ぎ、森から美しい川辺へと出た。
川から少女に視線を移すと、少女がしゃがんで目線を合わせてくれる。それが、いつもの流れだった。
ところが今日は、少女は隣に立ったまま口を開いた。
「今日、頑張って会いに行ったのよ。気付いてくれたかしら」
僕はドキリとしたが、この夢の中では身体の自由が利かない。彼女は少し切なそうな顔をする。
「……思い出してはいないのね」
彼女は澄んだ声音でそう呟くと、いつも通りにしゃがんで目線を合わせ、僕の頭を撫でながら、口を開く。
声は聞こえたはずなのに、やっぱり肝心なところは僕の耳に届かない。
最後に指切りをして、彼女はまた一人森へ帰っていく。
僕はその背中を追いかけようとして足を踏み出し、そこでふと思った。
何故、僕は今彼女が森へ『帰る』と思ったのだろう。
その考えがまとまる前に、僕の意識は急速に覚醒へと向かって行った。
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