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夏魚
人魚が夏を連れてきた。
櫂の家には毎年人魚がやってくる。それは必ず夏のこと、梅雨が明けるのを合図にいつの間にかやってきては、我が物顔で浴槽を占領する。
人魚が一体どこから来るのか、どうして櫂の家にやってくるのか、それは何もわからない。ただ櫂は、名前も知らない人魚がやってくるこの騒がしい季節を心待ちにしていた。
「正しく言えば、私は人魚とはちょっと違う。正確には“夏魚”っていうのさ」
とは、人魚の談である。
夏魚とは何かと問えば、人魚は夏を運ぶ存在だと答えた。ある条件を満たした人魚がなる精霊のようなものらしい。夏魚は梅雨の前に春花から季節を引き継ぎ、夏を導くと、やがて秋虫に誘われて去っていく。しかし夏を運ぶというわりには、人魚は夏が苦手なようだった。
「だってさあ、あまりに暑いんだもの。火の中にいるみたいだろ」
いつかの夏、冷水を溜めた浴槽で揺蕩いながら、人魚はそう呟いた。
「他の仲間もあんなことを言うのか」
ある日、絵具をキャンバスに叩きつけながら櫂は尋ねた。
夏の間だけ浴槽を人魚に貸している櫂だが、これはちゃんと条件がある。それは、美大生である櫂の絵のモデルになることだ。
この条件を提示したのは櫂だ。なにせこちらは数か月も浴槽を貸さなくてはならないのだから、これくらいしてくれたっていいだろう。人魚は綺麗な顔に似合わない苦虫を潰したような表情になったが、「アンタ、変わってるなぁ」と零して頷いてくれた。
櫂は出来る限り画材が湿気の影響を受けないよう気を付けながら筆を操り、外の様子を人魚に伝える。目も眩むような日差し。耳を劈く蝉の合唱。ふと立ち寄った木陰の涼しさ。水辺ではしゃぐ子供達の歓声。よく冷えたラムネを見つけた時の小さな喜び。耳に心地良い風鈴の音色。太陽を向いて咲き誇る向日葵の凛々しさ。それらを大して面白くもなさそうに耳を傾けるのが人魚の日常だった。
「他の仲間っていうと、春花達のことか。さあどうだかねぇ、私は聞いたことがないな。でも多かれ少なかれ、自分の担当する季節と言うのは疎ましいものさ」
優雅に尾ひれを揺らしながら、人魚は首を傾げる。それに合わせて、肩にかかっていた髪がはらはらと零れ落ちた。
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