夏魚

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まず目に飛び込んでくるのは、はっとするほど鮮やかなその色だ。海中だというのに驚くほど明るく、遠くまでよく見える。体を包み込む水は仄かにあたたかく、羊水を思い起こさせる。 名前も知らぬ魚が優雅に目の前を横ぎっていった。それを目で追ってみれば、ふわふわとたなびく青色の髪。 淡く微笑む、美しい人魚。 「とても幸せな日々だった」 吐息まじりの声に、櫂は目を開く。 目の前には、空想と変わらぬ微笑を浮かべた人魚の姿。 「自由気ままに海の中を漂って、生き物と戯れて、そうして日々を過ごしていた。時には陸に上がって、人間と言葉を交わすこともあった。私は人間が好きだった。醜く脆く、それでもどうしようもなく愛おしい人間が」 「それは今でも?」 「さあ、どうだろう」 きっとそれは嘘だろうと櫂は思った。きっとこの人魚は、今でも人間を好いている。だからこそこうやって、毎年必ず櫂の元へやってくるのではないだろうか。 そんなことを言えば、きっと「自惚れるなよ」と笑われるのだろうが。 櫂の心境に気付いたのだろう。人魚はちょっと居心地が悪そうに、乱暴に前髪を掻き上げる。 「そういうアンタはどうなんだい」 「俺?」 「そう。質問ばかりしていないで、そっちこそ教えておくれよ。夏は嫌いかと人魚に尋ねる、そういうアンタは夏は好きなのか?」 櫂は瞬き一つ、少し躊躇いがちに頷く。 「そうだな、夏は好きだ。貴方に会えるから」 「そうかい。……ああ、こら、これは描くなと言っただろう」 つまらなそうに言った人魚は、櫂が赤い絵の具に手を伸ばしかけたのを見て顔を顰める。 人魚の体には赤い痣がある。大輪の花のように咲き乱れるそれを櫂は髪と同じくらい美しいと思っているのだが、人魚はこの痣が心底嫌いらしい。 櫂は小さく詫びると、取り繕うように赤い絵の具を退けた。人魚はそれを見て満足気に頷くと水の中に顔を沈ませる。長い髪は水の中で揺らめき、やがて溶け込んでいった。
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