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終わりはいつだって突然やってくる。それを櫂は嫌というほどよく知っている。それなのに彼はいつも、無防備に忘れ去ってしまう。
寝苦しい熱帯夜の山場が越え、涼しい風が窓から吹きこんでくる夜だった。とろとろと微睡んでいた櫂は、不意に胸がざわめく感覚に目を覚ました。
心臓がバクバクと音を立てている。月明かりの差し込む暗い家の中は酷く静かだったが、耳を澄ませば、微かに水の揺れる音が聞こえる。櫂はふらふらと、人魚の眠る浴室へと向かう。
電気の消えた浴室は昼間とは打って変わり、不気味で陰鬱なものだった。時折聞こえる雫の落ちる音が、酷く物悲しく櫂の耳を擽る。その浴槽の中、小さく丸まる影が一つ。
「今日、日暮の声が途絶えただろう」
暗がりの中、人魚は笑う。諦めたような、乾いた笑みだった。
「もうなのか」
櫂は暗い声で尋ねる。痛ましげな表情の櫂とは対照的に、人魚の表情は穏やかだ。
「ああそうさ、ここで一旦お別れだ。また見送ってくれるかい?」
櫂は何か言おうとして、しかし何も言葉が見つからず、結局は黙ったまま浴槽の傍らに座り込んだ。寝間着が水分を吸い込んでじっとりと濡れるのも構わずに。
やがて人魚の赤い痣から、仄かな明かりが現れる。それは小さな火だった。反射的に手を伸ばす櫂だったが、それはやんわりと止められてしまう。
「よしなよ。焼かれたのはアンタじゃないんだから」
言葉に詰まる櫂に、人魚は淡く微笑む。伸ばした手を所在なさ気に見詰めて、櫂はそっとそれを下ろす。いつまで経っても、この瞬間は大嫌いだった。
夏魚は、焼かれた人魚が選ばれる。
何故焼かれた人魚が夏魚を務めるのか。それは夏魚自身もよくわかっていない。ただ夏魚は与えられた役目通りに夏を運び、それが終わる頃には体から火を放つ。焼かれた記憶を再現するかのように。
そうしていずれ姿を消し、本来あるべき世界へと還っていく。行き着く場所がどこなのか、そこでどうやって過ごしているのか、人魚は決して教えてはくれない。
だから櫂は人魚に夏を教える。焼けた記憶を思い出すからと夏を厭う人魚に、少しでも良い思い出を与えたいから。自己満足に過ぎないその行為を、人魚は特に何を言うでもなく、大人しく付き合ってくれる。
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