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「なあ、夏はまだ嫌いか」
櫂の問いかけに人魚は笑う。もう火は体の半分を覆い始めていた。浴槽を照らすそれは不思議と熱くないが、それはもしかしたら人間だけかもしれないと嫌な想像をする。
「まだだねぇ」
人魚は吐息まじりに答えた。ちろちろと揺れる炎の切っ先が、美しいかんばせを撫でていった。
「何をしけた顔をしているんだい。私に夏が好きだと言わせたいんだろう?」
櫂の心を見透かしたように人魚は言う。俯いた重たい顔を上げ、櫂は息を深く吐いた。
「次こそは」
「うん」
「次こそは、絶対に夏が好きだと言ってもらう」
「だから、また来年」
櫂が手を振ると、人魚は嬉しそうに手を振り返した。その瞬間、一際大きく燃え上がった炎が、人魚の姿を完全に包み込む。
瞬き一つした後、そこには何も無かった。泡すらも残っていない。
櫂はのろのろと起き上がり、静かになった浴槽を後にする。彼は部屋の隅に置いていたキャンバスの前までやってくると、描きかけのそれをそっと撫でた。
ほぼ完成に近付いた絵には赤が足りない。花のような美しくもおぞましいその火傷痕は痛ましく、同時にどうしようもなく愛おしさが込み上げてくる。
人魚がこの痕を見て、困ったように笑わなくなる時は来るのだろうか。
櫂は筆に青い絵の具を染みこませ、キャンパスに叩きつける。脳裏にちらつく炎の色を振り払うように。
夏が嫌いだという人魚の姿を、思い浮かべながら。
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