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「え、でも……」
郁人さんの音を聴いた日から、わたしはフルートの練習を再開した。
貯金を崩して、中学の頃習っていたレッスンの先生のところにも、また通い始めた。
それでも、この人に聴かせられるような代物じゃないって自覚はある。
ただ、わたしももう一度、フルートを吹きたくなっただけ。
少しでもきれいに、少しでも理想に近い音を、出してみたくなった。
中学で吹奏楽部に入部して、パート分けでフルートに選ばれたときすごく嬉しかった。
たくさん練習して、上手くなるんだって、思った。
それを思い出したから。
「いいから吹け」
ぐいと更に距離を詰められて、わたしは恐るおそるフルートを受け取る。
いいフルートだろうとは思ってたけど、老舗フルートメーカーのものだ。
「笑わないでくださいね」
「おまえがひどい音出してたときだって、別に笑いやしなかっただろ」
確かに、そうだった。
あの時よりは、さすがにいくらかはましになっているはず。
わたしは覚悟を決めて、黒ずんだフルートを構える。
アンブシュア(口の形)を作って、息を吸い込む。
息を吹き込んで出てきた音に、驚く。
やっぱり、わたしのフルートとは全然違う。
でも、同じ楽器を使っても、やっぱり郁人さんの音にはほど遠い。
わかりきったことだけど。
吹くのは、最近のレッスンで練習してる曲。
吹奏楽と違うのは、ひとりで演奏できること。
それも楽しいって、レッスンを再開してから気づいたんだ。
吹き終えると、郁人さんは不機嫌そうな顔をほんの少し緩ませた。
「悪くねえ」
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