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周囲を見回すが、誰もいない。
マンションのロビーに、光に吸い寄せられてジャンプしてはガラス戸に阻まれて、パチン、パチンと音を立てているコオロギのような虫が一匹いるだけだ。
再び歩き出すと、また声がした。
「お前に言ってんだよ。死にてぇんだろ?」
「なんだと……?」
物言いにイラッときて、再び声の主を探す。
「こっちだよ、こっち」
声を辿ると、どうやらそのコオロギの辺りから声が発せられているようだ。
「ああ、もうこの身体うざってえな。本能で光に突進したくなっちまう」
めまいがして倒れそうになった。暑さで頭をやられてしまったようだ。
「暑さのせいじゃねえよ、バカ。俺がしゃべってんだよ」
「嘘だろ……。喋るコオロギ?ピノキオじゃあるまいし」
やはり声の主は、そのコオロギらしい。
「コオロギじゃねえ。コオロギの仲間の、ヒロバネカンタンだ」
「ヒロバネカンタン?」
そんな虫の名前は初めてきいた。今の状況が自分の妄想だとしたら、そんな言葉をどこから持ってきたのだろう。
「死にたそうな顔をしてやがるから、殺してやろうかって言ったんだよ」
「誰が……!」
確かにそんな顔をしていたかもしれないが、僕はこんな自分でも生きていこうと決めたばかりだったので、腹が立った。
「お前みたいな虫っコロに、そんなことができるのかよ」
「できるから言ったんだよ」
「やり方は?」
「俺が帰るのを拒否したら、お前も死ぬんだよ」
「どういう意味だよ」
「14歳の時だ。思い出せ」
「!?」
言ってる意味が分からなかった。ざっくり14の時と言われても、すぐには思い出せない。
「俺はお前なんだよ。わっかんないかな、もう」
「何を言ってやがる……」
虫が僕?まったくもって理解できない。
「自転車にぶつかって、意識不明になったろうが」
「それは……」
あった。学校帰り、一人で音楽を聞きながら坂道にさしかかった時、ヘッドホンをして片手でスマホをいじっていた女子大生が乗る自転車が勢いよく下ってきて、衝突。
病院で三時間ほど意識が戻らず、生死の境を彷徨ったことがある。
意識を取り戻して、生きていることに感謝し、怪我も治って、その後の人生観が変わりそうな気もしたが、年月が経つにつれてただの思い出になっていた。
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