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≪シーン・0≫
少年は母親の声がしたような気がして、眠りの淵から覚醒に連れて来られた。それは本能的な目覚めに近かった。
夏掛けを羽織った布団越しに起こした半身から察するに、三歳、四歳といったところだろうか。
少年はすぐに右隣を見た。敷き布団の上に夏掛けが綺麗にかけられたままだった。
薄暗がりの中でもはっきり判ったそれに、けれども少年は念のため、手を伸ばして確認する。予想通りそこに温もりはなかった。
少年は布団から出ると、母親の布団をまたぎ、手前の襖に手を掛けた。その向こうに居るはずの母親の姿を求めて。
襖の隙間から電灯の光が走るように漏れてきていた。闇に慣れた目にその明かりはいささか眩しいくらいだったが、それ以上に一人ぼっちの自分が悲しくて、襖に手を掛けながら、母親を求めた。
「お母さん?」
眩んだ視界に瞼を落とし、少年は声だけでその存在に呼び掛けた。つもりだった。だが。
その瞬間、漂ってきた鼻に衝いた異臭に、少年の体がびくりと震えた。反射的に目を見開いてしまった、その体を、
「おぼっちゃま! いけません!」
悲鳴のような叫び声と共に、通いの家政婦である恰幅の良い初老の女性が、少年の体全てを包み込んだ。そのまま強く抱き締める。まるで何も見せまい、気づかせまいとするかのように。
だがそれは一瞬だけ、遅かった。少年はその場の画面を見てしまっていた。
けれども見てしまいはしたけれど、幼い彼にはそれがなんなのかは判らなかった。
ただ少年の目に映ったものは。
両手の指を必要としるくらいの大人達が、慌てふためきざわついていた。
まだ息がある───手当を───医者は───。
そんな単語が飛び交う中、大人達が囲んでいた中央に、散らばっていた「モノ」達。
少年を抱き締めた老女はか細い声で、見れはいけません、おぼっちゃまは見てはいけませんと、ただそれだけを繰り返した。
だから彼は今見たもの───うつ伏せになっていた父の腹から背を刺し貫いていた赤い液体を滴らせた日本刀の煌めきと、真っ赤に染まった母の腹からこぼれ落ちてうごめいていたもののことは、忘れなければいけないのだと思った。そして同時に思う。忘れればいいのだ、と。
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