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「じゃあ、爺ちゃんは、女性ものの白い服を着た安井さんを追いかけて、あの立ち呑み屋に入ったということなんですか」
「店に入ったら、すぐに白い服を脱いで、素知らぬ顔をしてカウンターで酒を呑んでおくんだよ。そうしたら常次郎さんみたいに俺を追いかけて店に入ってくる奴がいるから、そういうのを常連たちと一緒に酒のアテ代わりに楽しんでいたんだよ」
真司は、昔ながらの人たちの遊び心をまだまだ理解はできなかったが、安井にどことなく漂う迫力は、そんなところから来ているのではないかとも思った。
「でも、爺ちゃんはその後も、あの人を何度か見たって言ってましたよ」
真司は、大雨で橋が流された話や山の泉で見つけた特別な水の話など、常次郎が教えてくれたあの人にまつわる一連の出来事と、最近、夢で鶴に出会った話を必死になって安井に説明した。
「流石に、俺は金沢のその一度きりだよ」
「呑み屋街での白い服の女性は安井さんだったとして、他のあの人の話は一体どういうことなんだろう?」
安井は畳の上で冷たく眠る常次郎をじっと眺めて言った。
「きっと、それは常次郎さんの遊び心だな」
「遊び心?」
「俺の遊び心と一緒にすると、常次郎さんに叱られるかもしれないけど。真司のことが心配だったんだろうよ」
「心配?」
「鰯の頭も信心からって言うように、俺の商売も、常次郎さんみたいな職人も、決して安定した稼業じゃないからな。常次郎さんが、光栄にも俺と金沢で出会って、店が上手く回り始めたのだったとしたら、白い服の女性をあの人と呼んで気にかけることで、自分には運がある、まだまだ大丈夫だって、自分を励ますことができる。そんなことを真司に教えたかったんじゃないかな」
「それで爺ちゃんは、しょっちゅう、あの人の話をしてくれたのかな」
「なんでもないことでも、何かを信じるってことは、結局、自分自身を信じるってことに繋がるからな」
「大雨の橋の話も、夢に鶴が出てきた話も、ボクのことを心配してくれていた爺ちゃんの作り話だったということですか」
「常次郎さんは職人だから、細部にまで気が届くからな。鶴の恩返しじゃないけど、鶴来の町の名前にも引っ掛けて、鶴を登場させたんだろうよ」
「それも遊び心というやつでしょうか」
真司は、常次郎の傍らに飾っておいた常次郎の白い折り鶴を手に取り、しみじみと眺めていた。
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