09.エインセル

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09.エインセル

 鐘の音が鳴り響く。シオンは驚いて辺りを見回した。広い堂内を、鐘の音が荘厳に響き渡る。周囲の人々は本を閉じて席を立ち始めた。壁の照明に、細い火がぽつぽつと順に灯っていく。  橙色に染まっていく壁を目で追いながら、シオンはスフェノスへと声をかけた。 「図書館が、閉まる時間ですかね……?」 「うん。どうやらそのようだね」 「じゃあ、続きはまた明日にしますね……」  シオンは席を立ち、スフェノスと共に児童書の棚へ絵本を戻した。受付嬢や常連たちからオススメされた抱えるほどの本を戻すのはちょっとした運動に近い。全て戻し終えて帰路へつく人の波に混じると、自然とため息が漏れる。昼食や小休憩も取っていたのだが、気疲れだろうか。  シオンは頭をおさえた。 「試験までに、文字が書けるようになる気がしません……」 「まだ始めたばかりだ。なかなか進まないのは当然だよ」 「そうですね……。まずは文字を覚えないことには……」 「むぎゅぅっ!」 「むぎゅうっ……?」  足もとに妙な違和感がある。踏みしめたのは明らかに石畳の床でない。  シオンが見下ろすと、彼女の足の下では白く長い体毛に覆われた4足歩行の獣がジタジタと手足をばたつかせていた。  シオンは慌てて足をどける。獣は尾と毛を逆立て、これまた小さな牙を剥いた。 「むきゅーっ!」 「ご、ごめん……! 足元を見てなくて……!」 「きゅーっ!!」  甲高い声は怒っているのだろうが、狐を縮めたような愛らしい姿に思わず頬が緩んでしまう。  白い毛玉はシオンめがけてとびかかってきた。 「シオンの前を横切ろうとした君が悪い」 「むぎゅっ!」 「す、スフェノス……。かわいそうだから……」  しかし、獣の短い爪はシオンへ届く前に、横から伸びてきた手に捕えられていた。珍妙な生物はスフェノスの手から逃れようと、甲高い鳴き声を上げて暴れ回る。さながら、わた菓子が意思をもったようだ。  周囲から視線が集まり始めたので、シオンたちはそそくさとその場から離れた。  首根っこを掴まれたわた菓子の化身は左右に揺れる。 「これはエインセルと言う妖精だよ」 「えいんせる……?」 「そう。形は個体によって様々で、決まった姿を持っていないんだ。このエインセルもたまたま獣の姿をしているだけでね」 「ここへ来て、初めて聞きました……」 「基本的に人間を避ける生き物なんだ。こんな場所にいるのが珍しい」 「じゃあ、どうしてここに……?」  シオンが辺りを見回しても、周囲には石組の建物が立ち並び、道は全て舗装されている。庭に植わる緑は人間が拵えたものであって、自然物ではない。  スフェノスが暴れるエインセルの口を抑えようとすると、鋭利とは言い難い牙が彼の指に突き立てられた。シオンは冷や汗を流す。  何とも怖いもの知らずな生物だ。  彼は呆れた様子で肩を落とした。 「見ての通り、あまり頭が良い妖精じゃない」 「きゅるるるっ!」 「怒って、ますよ……?」 「言語が理解できても、理知的な思考ができるわけじゃないから」 「指、大丈夫ですか……?」 「個体によって姿は違うけど、エインセルは総じて柔らかい物を好んで食べるから、この牙もお飾りさ」  スフェノスの指に食らいついたまま。手足を地につくこともできず、毛玉が宙ぶらりんになっている。スフェノスが地面に下ろしてやるも、動かない。  シオンは困り果てた。 「……離れませんね」 「エインセルの頭が悪いのはこういう所だ」 「きゅー!」  指から口を放したかと思えば、猛然とスフェノスの顔面めがけ突進する。それも弾かれた指に呆気なく阻まれ、白い毛玉が路上に転がった。 「け、けっこう、痛そうですよ……」 「あれでも妖精だから、一般的な生物よりずっと丈夫だよ。その内に自分の巣へ戻るだろう」    しかし白い毛玉は追って来た。たかたかと石畳を走り、スフェノスに突進しては払われる。  いつかは諦めるだろう。白い毛玉を植え込みに向かって放り投げるスフェノスにヒヤヒヤしながらも、シオンもそう思っていた。
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