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「お、俺、学校に行かなきゃ」
気まずさに押し負けて俺はペダルに足をかけた。その時。
「あなたのお母さんは雨の日に自転車に乗ることに、何も言わないの?」
「少し言う、けど……」
「だったら、止めなさい」
語気の強さに俺はおばさんを振り返っていた。おばさんは俺に背を向けていた。傘を肩に持たせかけるようにして。
俺はその時、何か感じた。何かが引っ掛かった。だがそれに思い馳せるのを遮るようにおばさんの言葉が続いた。
「私の息子もね、私の言うことをきかないで雨の日でも傘を差して自転車で駅まで通っていたわ。さんざん危ないって言ったのに、この結果」
声が細かく震えていた。俺は息苦しくなって、すぐにでもこの場を離れたかった。だがその反面で何かが俺をひき止める。
そうだ、あの傘だ───。
全身が総毛立つのを感じた瞬間、おばさんが俺を振り向き、か細く微笑んで言った。
「ごめんなさいね、引き止めちゃって。学校、大丈夫かしら」
「あ、多分……」
間に合わないな。ま、しょうがないけど。
俺はおばさんに黙礼し、再度ペダルを踏み直した。が。
「自転車には乗らないでね。雨の日には……」
後ろから、おばさんの声が俺の背中を衝いた。ピチャピチャと水を跳ねた足音が遠ざかって行く。
俺は少し逡巡したものの、どうせ遅刻だ、自転車を降り駅を目指して押して歩き出した。その時。
俺はあの傘に感じた違和感が何だったのか急速に思い出した。
あれは───あれは「あいつ」の傘だ!
いつも雨の日しか会えない、あいつの傘だ。もちろんあんな柄のない青いビニールの傘なんてどこにだってあるだろうけど、でもそういえば俺、今日あいつに会わなかった……。
───事故に遭ったのよ
不意にさっきのおばさんの声が脳裏に響いた。
───こんな雨の日にね……
俺はそっと後ろを振り返った。
───自転車には乗らないでね。雨の日は……
* * *
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