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あれは7か月程前のことだった。週末に行われた同期会の2次会で、誰かの行きつけだと言って入ったスナック、それが『凛』だった。
表参道の細い道を少し入ったところにある古くて細長いビルの1階の入口に『凛』の照明がついた看板があった。古い木製のドアを開けると広くない室内で、カウンターに止まり木が6つとテーブル席が2か所あるごく普通のありふれたスナックだった。
誰かが歌っている。すでに4~5人の客がいてかなりうるさそうだ。ただ、こちらも2次会で皆少し酔っているので、気にならないし、この方がかえってしゃべりやすい。ここではもう気心の知れたものだけになっている。
皆は空いていたテーブル席に着いたが、どういう訳か僕だけがあぶれてしまって、止まり木の一番端に席を見つけて座った。
カウンターの中はママとおぼしき女性がひとりで切りまわしている。まだ若く、三十歳を少し過ぎた位かと思えた。
「ママ、皆に水割りを作って下さい!」
山内君が注文しているので、彼の行き付けだと分かった。ママはテーブル席で水割りを作ってくれている。
「もう一人、あぶれた止まり木の磯村君のも頼むよ」
「はい、分かっていますよ」
ママがカウンターの中へ戻ると、僕の方へ水割りを持ってきた。あっ! 見覚えのある顔だった。亜里沙! 髪がショートになっているが間違いない。
ママも同時に気が付いたみたいで、ジッと僕を見つめたまま動きを止めた。眼差しに憂いを見たような気がした。
ママは唇に人差し指を軽くあてた。それを見て僕はもう会ってはいけなかったと思い目を伏せた。
その間にママは何かを書いていたようだった。それから、何もなかったかのように名刺を差し出した。
「磯村さんとおっしゃるの、寺尾 凛です。お名刺をいただけますか?」
ママは名刺を差し出す時に裏を読んでと合図した。
「磯村 仁です」
こちらも名刺を差し出す。山内君はなじみだからもう会社名は分かっているはずだ。
「磯村さん、本名だったのね」
少し微笑んだかに見えたが、小声でそう言うと、すぐにカウンターの反対側へ行ってしまった。もう少し話したかった。名刺の裏には『皆さんと帰った後、戻ってきて下さい』と書かれていた。
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