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オアリスの中心地に差し掛かった時、大通りの正面奥に破風造りの風変わりな城郭が姿を現した。あれがシトー王家の居城であることは、イノイルの中心へ初めて足を踏み入れたアルテミシアの目にも明らかだ。しばらくの間、居心地の悪さも忘れて身を乗り出した。
「わあ」
黒い瓦屋根と所々に金の装飾が施された漆喰の壁の壮麗な建物で、東西に両翼を広げるような形をしている。その後方にはステンドグラスの丸窓が美しいクーポラの塔があり、こちらは大理石でできているように見えた。このような建物はどの国でもまったく見たことがないが、その一方で城郭を囲んでいる煉瓦造りの壁には、アルテミシアにも見慣れたアーチ型の門が取り付けられている。多文化が融合し、不思議に調和したその建造物は、宮殿のようにも要塞のようにも見えた。
「オアリス城だ。古くは五百年ほど前に建てられた小さな城塞だったが、オーレン王が即位した時に大々的に改修して今の城郭になった」
と、サゲンは目が城に釘付けになっているアルテミシアに教えてやった。
書物やイノイルの船乗りたちの話では聞いていたが、やはり実際にイノイルの街並みを目の当たりにすると圧倒される。生まれ育ったルメオの小さな村とも、ルメオの首都であり学問の都であるユルクスとも、これまで渡り歩いてきたいくつもの港町とも、全てが違っていた。
黒っぽい瓦屋根と漆喰の建物が多く立ち並ぶ中、ちらほらと二階や三階建ての石造りや木造の様々な建物が見受けられ、庶民も貴族も入り混じって生活している。商店が多く集まる地域は、様々な階級の人々でごった返し、足の踏み場もないようだった。通り抜けるのに時間がかかったから、アルテミシアはその間賑わいを楽しむことができた。露店で新鮮な魚を売る若い親子、色とりどりの野菜や果物を売る元気な老婆、時には怪しげな骨董品が並ぶ薄暗い店もあり、街全体が活気に満ちている。
この国が他国とは違う異質な雰囲気を漂わせている理由の一つが、服装だ。男性の服は襟付きの羽織にシャツ、細身のズボン、ロングブーツと、他の国とさほど変わらないが、女性が着るドレスは大陸の他の国とはまったく趣が違っている。他国ではローブと胸当てを使うか、あるいは色の違うドレスを何枚か重ね着し、スカートに多少なりとも膨らみを持たせたドレスが一般的だが、イノイルの女性たちは貴賎に関係なく、一枚で着ることのできる、スカートの膨らみがないシンプルなドレスを好んでいるようだ。中には、スカートの横にスリットを入れて、下にズボンを履いている者もいる。アルテミシアにはとても機能的に見えた。
「あれ、すごくいいね」
「ドレスが?」
「うん」
サゲンはわずかに首を傾げた。
「珍しいな。外国から来た者は地味すぎると言うが」
「活動的でいいと思う」
サゲンの口からは小さく笑みが漏れた。前に同乗している女は、やはり風変わりだ。しかし、少なくとも服装に関する意見は同じのようだった。
市街地を過ぎ、郊外まで来ると、前方に黒々とした森が迫ってきた。森に入った瞬間、匂いと温度が変わった。樹木と土の瑞々しい匂いが鼻腔を満たし、森の冷たい空気が顔を撫でた。六年間味わうことのなかった感覚だ。夕陽が木々の間から漏れて、よく整えられた馬の黒いたてがみをつやつやと照らした。
「街の城壁の中に森が?」
「敵に城壁を突破されたときの前線基地になる。オーレン王の設計だ」
「なるほど。地の利というわけ」
とアルテミシアが言ったのは、市街地が戦闘状態になった時、市民を匿ったりゲリラ戦術を行ったりすることができるからだ。サゲンは僅かに驚いた。
「船乗りは陸戦には明るくないと思ったが」
「これでもユルクス大学を首席で卒業したんだよ。社交マナーや一般教養だけの女学生用の試験じゃなくて、十科目以上ある男子学生と同じ試験で」
サゲンは目を見開いた。この人物は全てが見かけと違う。身元が確かでなくともこれを欲しがる女王の気持ちは少なくとも理解できる。
「ユルクスでは戦術も教えるのか」
「元将校でルメオの内乱期に内陸部の戦闘を指揮していた教授がいる」
しかし、疑問は膨らむばかりだ。次の質問で核心を突いた。
「それで、ユルクス大学を首席で卒業したお嬢様が何故船乗りに?」
アルテミシアは押し黙った。最後の質問はそれまでと声色が違い、敵意に似た響きがあったからだ。信用されていないのは分かっている。
「…これは尋問?それとも面接の類?」
アルテミシアは冷静に話せるよう心掛けたが、苛立ちは隠しきれない。しかし、別段気に掛けることなく、サゲンは続けた。
「躾の厳しかった親への当てつけか」
「陛下ならまだしも、あんたに答える義理はない」
「親の決めた相手が気に入らなかった?」
アルテミシアはカッとなった。実のところ、それもある意味で理由のひとつだからだ。しかし、今日会ったばかりの男にそんな質問を許すほど寛容ではない。鼻に皺を寄せたまま、後ろを振り返った。
「なんだ。図星か、お嬢様」
「最初は寡黙な軍人なのかと思ってたけど、女みたいにおしゃべりだね」
アルテミシアは辛辣に嫌味を言ってやったつもりだったが、当の本人は気にせず、おかしそうに薄っすらと笑みを浮かべている。
「気に障ったか」
「ええ、気に障った。それから、次わたしのことをお嬢様って呼んだら顔面に一発喰らわせてやるから。バルカ将軍」
アルテミシアのヘーゼル色の瞳が薄い緑や所々濃い茶色を含んで複雑な色に光り、剣呑な翳りを見せた。一見温和そうな貌をしていると思ったが、こうしてみるとずいぶん印象が変わる。危なっかしい小型の野生動物のようだった。
あからさまな敵意を持って睨みつけられたというのに、サゲンはこの風変わりな女に興味が沸いた。剛直さは、サゲンが自分の軍の兵士に一番に求めるもののひとつだ。
森へ入ってから三十分ほどで、その建物は現れた。木々の中の広く開けた場所に建つ、イノイル独特の黒い瓦屋根の建物だった。が、オアリス城のように漆喰ではなく黒っぽい石造りの平屋建てで、母屋はかなり広い。壮麗な神殿のようにも小さな要塞にも見えた。門はなく、篝火台の高い柱が広大な敷地を囲むようにいくつも設けられている。アルテミシアは、大きな平屋の周囲に、渡り廊下で母屋と繋がったいくつかの大小の建物があるのを見つけた。そのひとつひとつが厩や武器庫、食糧庫などになっていて、そのうちの一際大きな木造の小屋には、外に竈のようなものと煙突が備え付けられている。
それを見た途端、アルテミシアの心は躍った。実家を思い出すとき、ただひとつ恋しく思っていたものだ。
「お風呂がある」
サゲンは目を見張った。先ほどまでサゲンの無神経さにひどくへそを曲げていたのに、今は風呂を見つけて声を弾ませている。その変わり身の早さにおかしくなった。
「いい屋敷だね。すごく気に入った」
質実剛健をそのまま体現したような建築に、必要以上に手を加えられず自由気ままに生い茂る木々、離れに設えられた木造りの浴室――ここの家主とは気が合いそうだ。
「入りたければ用意させる」
とサゲンが言ったから、アルテミシアは飛び上がらんばかりに喜んで声を上げた。しかし、その前にこの趣味のいい屋敷の主人に挨拶をしておかなければならない。
「屋敷のご主人は?」
(まったく…)
サゲンは静かにため息をついた。
(陛下もお人が悪い)
「俺だ」
アルテミシアは背後を振り返って首を傾げた。
「えっ」
自分でも頓狂な声だと思った。
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