五、森の屋敷 - la dimora nella foresta -

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 翌朝、アルテミシアは早朝三時に起きて支度を始めた。陸で眠るのは久しぶりだったから、客間のベッドに入ってからも波に揺られているような錯覚に陥ったが、客間のベッドは適度に硬くて寝心地が良かったから、寝覚めは良い。昨夜女王の使者から届いたという数着の衣服のうち、いちばん動きやすそうなものを選んで着た。夏の空のような青色に染められた絹のドレスだ。スクエアネックの前開きになるもので、繊細な細工の金ボタンが二列に取り付けられ、右の裾から腰のあたりまでスリットが入っている。その下に黒いズボンを履き、裾をブーツにしまい込んだ。  バルバリーゴの船に乗って以来、船乗りの男たちと同じ服装をしていたから、ドレスを着るのは六年ぶりだ。久しぶりのドレスに足を取られそうだと思っていたが、やはりこの国のドレスは機能的でなかなか動きやすい。胸の下から緩やかにくるぶしのあたりまでスカートが広がっていて、やろうと思えばこのまま全速力で走れそうだ。ドレスと一緒に華麗な模様の付いた絹製の帯が用意されていたが、生国のルメオ共和国ではドレスに帯を巻く習慣がないので、どう使うかよく分からない。結局、適当に腰に巻き付けて後ろで蝶結びをした。帯の先が少々長いと感じたが、元来あまり細かいことは気にならない性格だ。  厩へ向かう途中、サゲンと鉢合わせた。寝間着の簡素なシャツと濃紺のゆったりしたズボンを身に着けていて、切れ長の一重まぶたがうっすら二重になっている。どうやら起き抜けらしい。 「早いな」  サゲンはあくびをしながら言った。昨日の厳格で隙の無い印象には似つかわしくない姿だ。アルテミシアはおかしくなった。この男を出し抜くことがあれば、起き抜けが一番良さそうだ。 「船乗りは早起きに慣れてるからね。あなたは朝が苦手みたいだね」 「ああ、あまり得意じゃないな。君はよく眠れたか」 「うん。寝室も気に入った」  お世辞ではなく、本当に気に入った。昨日案内された部屋は、間に合わせの部屋とは思えないほど手入れが行き届いていた。心地よい木の匂いが漂う広すぎない程度の部屋の奥には大きな窓があり、その脇に低めの寝台が設えられていた。必要最低限のものだけがある、というのも、アルテミシアの好みに合う。 「じゃ、先に厩へ行ってるから」  アルテミシアがさっさと通り過ぎようとすると、サゲンが厳しい声で呼び止めた。 「待て。結び方が違う」  おもむろに近づいてきたかと思うと、サゲンはアルテミシアが先ほど適当に巻き付けたベルトを解き、胸の下に巻き直し始めた。体温を感じることができるくらい近い。アルテミシアは面食らったが、目の前の男が当然のようにそれをしているので黙って挙動を見守った。時折サゲンの手が腰をかすめると、ひどくむずがゆくてくすぐったい気がしたが、それも我慢した。  サゲンは手際よくベルトを結び、後ろへ手をまわしてもう一巻きすると、前の中央より左側でアルテミシアの見たことのない結び方をした。 「陛下はああいう方だが、登城するからには…」  と、新参の通詞に教えてやろうとしたところで、サゲンは目の前の人物がひどく複雑そうな顔をしていることに気づいた。他意はなかったが、自然とバツが悪くなる。 「不躾だったか」 「あ、いや。大丈夫…」  アルテミシアも、この事態にうまく対応できなかった。男ばかりの船に六年も乗っていたというのに、体に触れられたことがほとんどなかったから、どう反応するのが正しいのか分からない。 「…ありがとう。それ、覚えなきゃ」  アルテミシアは不器用に片頬だけで笑い、その場を後にした。  厩では、数人の若い兵士が馬の準備をしていた。何人かはまだ何も知らされていないらしく、上官の屋敷から現れた婦人を見て驚いている。そのうちの淡い茶色の髪をした兵士が前に出てきて、アルテミシアに挨拶をした。 「昨日の夕飯は、お口に会いましたか」 「じゃあ、あなたが料理番?」 「ええ、昨日のね。当番制なんです」 「すごくおいしかった。突然来たのに用意してくれてありがとう」  アルテミシアが礼儀正しく言うと、兵士はにっこり笑った。人好きのする笑顔だ。 「僕はリコ・オレステ。今日の夕飯は彼が担当で、名前はイグリ・ソノ。僕の方が料理の腕は上」  紹介された金髪の兵士がリコを肘で小突き、アルテミシアに向かってぺこりと頭を下げて挨拶をした。みな堂々たる体躯の青年たちだが、彼らが料理にも腕を振るっているとは驚きだ。 「アルテミシア・リンド。陛下の通詞として雇われたんだ。どうぞ気軽にミーシャと呼んで」  そう言って、他の兵士たちとも握手を交わした。この国の人たちは下の名前を二つ公に使うのが一般的らしく、覚えるのが大変だ。 「陛下の通詞がなぜ将軍の屋敷に?」  イグリが訝しんで尋ねた。 「さあ…。城は嫌だと言ったらここに連れてこられて」  この一言で兵士たちはアルテミシアに好感を持ったようだった。弾けるように笑い出し、「さすが陛下の選ぶお人は一味違う」とか、「なるほどここなら気ままだろうな」などと言い合って腹を抱えた。 「楽しそうだな」  屋敷からサゲンが現れると、兵士たちは一斉に整列し、敬礼した。 「名前は覚えられたか」 「えーと、リコ、イグリ、ブラン、ロエル、レイ…ごめん、最初の名前しか」 「十分だ。兵舎はすぐ近くだから、忘れたらまた教えてもらえばいい」  サゲンはそう言って、部下が引いてきた馬に跨った。昨日と同じ黒のマントが、金糸で刺繍された王国の紋章をきらきらと際立たせた。
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