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五十七、呪詛 - la Maledizione -
――誰かが泣いている。
アルテミシアはどことなく見覚えのある場所を歩いていた。空は青く澄んで、地面には草が茂り、コマドリがぴちぴちとさえずりながら地面に落ちた木の実や穀物を食んでいる。その先に、樫の木があった。
その樫の木のY字型に分岐した枝に腰掛けて俯く女の子がいた。チョコレート色の長い巻き毛の、五つか六つぐらいの女の子だった。
「どうしたの?」
アルテミシアが声を掛けても、女の子は俯いたまましゃくりあげている。
「こんなところに子供一人でいたら、危ないよ」
女の子は丸めた両手を目に当ててごしごしとこすり、涙を流し続けた。
「あなたも、こどもじゃない」
アルテミシアは首を傾げて自分の身体を見た。フリルのついた淡いピンクのドレスを着ていた。足も手も小さく、よく見たら背も女の子と同じくらいだった。赤みがかった金色の髪の毛はまっすぐに胸の下まで伸びている。後ろの髪を触ってみると、両側から細く編み込まれた二本の髪の束が中央で一つに束ねられ、小さな三つ編みのお団子になっていた。ドナがいつもやってくれる髪型だ。
「それもそうか。わたしも子供だね」
妙に納得した。そう言われれば自分も子供だったような気がする。
「お母さんはどうしたの?」
アルテミシアが尋ねた。
「もういないの。お父さんがわたしのことを知らない人に売っちゃったの。だから一人なの」
「同じだね。周りに家族がいないから、わたしも売られちゃったみたい。でも、あなたと一緒なら二人だね」
女の子がぴたりと泣き止み、顔を上げた。アルテミシアは嬉しくなった。
「ねえ、別の場所に行こうよ。きっと楽しいよ。好きなところに行って、欲しいものを買うの!」
アルテミシアが言うと、女の子は嬉しそうに笑った。
「わたしは家が欲しい!」
「わたしは船かな。海って、大きくて広くて、とっても楽しそう」
「じゃあ、船を家にしましょうよ」
「いいね」
と笑ってアルテミシアは女の子の顔を見た。どういうわけか、途端に身体が凍り付くほど怖くなった。女の子の淡いグリーンの瞳が怪物の目のように妖しい光を放ち、地面を啄ばんでいた数羽のコマドリがバサバサと空へ逃げるように飛び立った。
「あなたも一緒だと嬉しいわ、ミーシャ」
その顔は、もはや女の子ではなく、成熟した女の貌だった。いつの間にか茂っていた草は枯れ、灰色の雲が混じった空に黄昏が訪れている。樫の木からロクサナが立ち上がり、ゆっくりとアルテミシアに近付いてくる。アルテミシアも、既に大人になって裾の破けたワインレッドのドレスを着ていた。助けを求めるように周りを見渡すと、いつの間にか海の上にいた。ブーツを履いた足は土でも枯れ草でもなく、木の板を踏んでいる。猫が三匹まとわりついてくる。船が揺れた。
「あなたと会えて嬉しいわ。だって、わたしたちには特別な繋がりがあるもの」
違う、と叫びたかったが、できなかった。声が出ない。近付いてくるロクサナから逃げようと後ずさりした時、何かに躓いてよろけた。
足下を見ると、肩に矢を受けたサゲンが倒れていた。浅い呼吸を繰り返し、苦痛に歪んだ顔でこちらを見ていた。
(サゲン!)
助けたいのに、身体が動かない。アルテミシアは泣きそうになった。サゲンを失ったら、生きていけない。少なくとも、心が死んでしまう。二度と喜びを感じることも、笑うこともできなくなる。わたしはまだ、サゲンが与えてくれたものを半分も返せていない。どれくらい愛しているか、伝え切れてもいないのに。
「触らない方がいいわ。毒を受けているから」
ロクサナがすぐ目の前に立っている。彼女はアルテミシアの頬をそっと両手で挟み、慈愛に満ちたような穏やかな顔で優しく微笑んだ。
「あなたが、毒」
そう囁いて、ロクサナはアルテミシアの手に何かを握らせた。長い金色の髪の毛の束だった。
「毒はあなたよ」
アルテミシアは声にならない叫びを上げた。
次に見たものは、天使だった。
薄雲の浮く青空を背に、翼の生えた子供たちがちょっと悪戯好きな顔で笑いながらこちらを見下ろしている。ひょっとしてわたしは死んでしまったのだろうかと一瞬考えて、それが天井画だということに気が付いた。カーテンが太陽光と一緒に揺らめいて天使たちを明るく照らしては再び影で覆い、アルテミシアの意識を徐々に現実へと戻していく。肌に触れているのは、木綿の毛布だ。
「ミーシャ?」
やわらかく優しい声が聞こえた。
「よかった…。目が覚めたのね」
(エラ…)
呼びかけたつもりだったが、声になっていなかった。
「ひどくうなされていたわ」
エラが心配そうに顔を覗き込み、額に浮いた汗と、目元を拭ってくれた。眠っている間に涙を流したのかもしれない。相当な心配をかけたらしい。エラの目の下には青黒い隈ができ、空色の目は今にも涙が溢れそうなほど潤んでいる。アルテミシアは数回咳払いをし、やっとの事で声を絞り出した。
「さ…」
「旦那様なら隣の部屋よ。毒のせいでまだ眠ってはいるけど、命は無事。傷も治るだろうって。詳しいことはお医者様が教えてくれるわ。バスケ元帥がナヴァレの軍医をうちに付けてくださったの。毒の専門家がいるからって。それから、会いに行くのは、ミーシャがふらつかずに動けるようになってからよ」
エラの言葉で一気に緊張が解け、鼻と目が熱を持って痛くなった。アルテミシアは鼻をすすった。
「ここ…」
「ここは南エマンシュナのお屋敷。兵舎は負傷兵でいっぱいだから、バスケ元帥がここを提供してくれたの。あなたたちが助け出されてから二日と半日経ったわ」
アルテミシアは顔だけを動かして周りをぐるりと見た。言われてみれば調度品や部屋の雰囲気が作戦前に軍議を開いたナヴァレの軍関係者の別荘と同じだ。もっとも、以前借りた書斎のように大きな本棚や執務机はなく、きれいなクリーム色に塗装された小さな読書用の机と装飾の付いた大きなワードローブが部屋の隅に見えるから、恐らく女性の寝室だろう。
「他の…」
「他のみんなはダリオスさんと一緒に残って事後処理をしてる。ほとんど救助されたけど、まだ見つかっていない人もいるみたい。ここにいるのは、旦那様とわたしたちの他に、毒の専門家だっていうナヴァレのお医者様とイグリ・ソノの隊だけよ。情報をここに集めて、旦那様が目を覚すのを待ってるの」
エラとイグリはまだ仲直りをしていないらしい。アルテミシアが声に出そうとしたところで、エラが先に口を開いた。
「本当は仕事の話はするなってお医者様から言われてたから、内緒よ」
アルテミシアは頷いた。
「ご…」
「謝らなくていいから」
「あり…」
「お礼も、いいから」
いちいち先回りして答えるエラをおかしく思い、アルテミシアは遂に笑い出した。笑った、と言っても口から弱々しい息がフッと出て行ったに過ぎないが、エラには伝わったらしい。エラはとうとう大粒の涙をこぼし、真っ赤になった目をこすりながらアルテミシアをぎゅうぎゅうと力一杯抱き締めた。
「お医者様を呼んでくる」
エラが辞去した後、またウトウトした。大した怪我も負っていないのにこれほど消耗したということは、やはりあの香のせいなのだろう。あの悪夢も、それが原因だろうか。
「ミーシャ」
今度は男性の声だった。伸びやかなテノールの声だ。
「わたしは軍医のクロード・バロー。これから君を診察するけど、いいかい?」
言葉にはエマンシュナ中北部の訛りがある。アルテミシアは目蓋をゆっくりと開いた。
目の前にいたのは、紺色の軍服を着た男だった。イルカを模したナヴァレの紋章が胸に付いている。年の頃は三十代後半から四十をいくつも過ぎていないくらいで、明るい金髪を軍人らしく短く切り揃え、穏やかな細い目の奥は真っ青な瞳をしている。視線を巡らせると、左腕に杖に蛇が巻き付いた腕章が見えた。医師の証だ。
アルテミシアは寝ぼけ眼を腕章から再び軍医の顔へ向けた。知らない顔なのに、不思議と見たことがあるような気がする。
「…大丈夫かい?」
ぼんやりとこちらを見つめているアルテミシアの顔を、バロー医師が怪訝そうに覗き込んだ。
「あ…、だいじょうぶです」
アルテミシアがひどい掠れ声で言うと、バロー医師は目を三日月のように細めて微笑んだ。
「じゃあまず、脈を測るよ」
バロー医師はアルテミシアのシャツの袖をまくり上げて手首に指を当てた。
「あれ?君…」
と、バロー医師が手首に添えた自分の手とアルテミシアの手をまじまじ観察した後、アルテミシアの顔を見て笑った。
「ハハ、わたしたちは手の形が似てるね」
「え?」
アルテミシアはきょとんとした。
「ああ、手なんかみんな同じ形だろうって思っているね。わたしが言っているのは、中指に対する人差し指と薬指の長さの比率や、手のひらや親指の先や爪の形のことさ。こんなところにも他人の空似があるというのは、なかなかに興味深いものだね」
(変わった人だな)
とぼんやり思いながらバロー医師が犬歯を覗かせて笑っているのを見て、この顔に見覚えがあると思った理由に気が付いた。
自分の顔に似ているのだ。特に鼻や唇の形が似ている。アルテミシアははっきりしない頭で三か月前のことを思い出していた。
コルネール邸の夜会で出会ったゴーティエ侯爵夫人は、アルテミシアを見て「リンド先生に似ている」と言った。
(もしかして)
と思って、すぐにその馬鹿げた考えを振り払った。目の前の男性はついさっき「クロード・バロー」だと自己紹介をしたではないか。父親の名前とは違う。どうも頭がまだぼうっとしてうまく働いていないようだ。
「本当。不思議な空似ですね、バロー先生」
そう言いながら、アルテミシアはうまく笑えた自信が持てなかった。勝手な想像で相手に対して小さな失望を覚えるなど、まったく馬鹿げている。
バロー医師は脈を取り終えると、今度は顔にランプを近付けて目蓋の裏や瞳孔を見、脚や腕の浮腫を触診で確認した後、「フム」と呟いて、ベッドの側で何やらゴソゴソと道具を用意し始めた。
アルテミシアが手元を覗き込むと、バロー医師は手のひらに乗るほどの大きさの小さなすり鉢で深い緑色をした草を磨り潰していた。よく見ると、サイドテーブルには背の高い銀のポット、白い陶器のティーポットと揃いのカップ、キルトのティーコージーと、三角に折られた薄紙が置いてある。多分、紙の中には調合された薬か何かが入っているのだろう。眠っている間に用意してくれたに違いない。
アルテミシアがこちらをじっと見ているのに気付き、バロー医師は顔を上げた。
「君、身体よりも心がしんどいんじゃないかい」
アルテミシアはぎくりとした。
「ああ、言わなくていいよ。その顔が答えだ」
バロー医師はすり鉢を置いて、サイドテーブルに置かれていたティーポットに磨り潰したばかりの草を入れ、次に薄紙に折り包んでいた乾燥した茶葉を入れると、背の高い銀のポットから湯を注いで蓋を閉め、最後にキルトのティーコージーを被せた。
「救助された女性たちに特徴を聞いたんだが、君が嗅がされた薬はね、恐らくオピウムやジヨロカなどの混合物だったみたいなんだ。まったく、こんなもので自由を奪おうなんて、とんでもないことを考えるやつがいるものだね」
バロー医師は憤慨した。アルテミシアはどちらの薬も聞き知っている。マルス大陸ではほとんどの国が輸入や製造を厳しく取り締まっている麻薬の類だ。
「それから――」
と、バロー医師は付け足した。
「矢の毒が君にも作用した。もしかしてバルカ将軍は君を庇ったかい?」
「…はい」
アルテミシアは俯いた。あの矢がサゲンを狙ったものだったかは分からないが、どちらにせよサゲンは自分の代わりに矢を受けることになっていただろう。
「ああ、気に病むのはやめなさい。将軍は君の盾になれて本望だったろうからね。しかし、納得したよ。将軍の肩を貫通した矢が君の肩にも当たったんだね。右肩を見てごらん」
アルテミシアはそろそろとシャツの襟ぐりを引っ張って肩に視線を落とした。右肩の鎖骨に近い位置に、蚊に刺されたような小さな赤い腫れがある。
「皮膚を通って毒が君にも回ったんだ。君の場合、既に別の毒を受けていたからバルカ将軍よりも身体に回るのが早かったのかもしれないね。毒の量は少なかったが、結果として効果は比較的強く出たと考えていい」
「サゲン…バルカ将軍は大丈夫なんですか?」
バロー医師は手を組み、アルテミシアを観察するようにじっと見てから口を開いた。
「救出されてからの二十四時間は、正直言うと、生死の境を彷徨っていたよ。すぐに矢を抜いたのは良い判断だったね。致死量が体内に残るのを防いだ。海に飛び込んだのも、結果的に血流を鈍らせて毒が回るのを遅らせたんだろう。加えて――これはわたしの推測に過ぎないが、水に溶ける性質の毒だったから海の中である程度体外に排出されたと考えてよさそうだ。今はもう安定しているよ。傷自体はそれほど深刻ではないから、完治するまで感染症にさえ気を付けていれば大丈夫だ」
アルテミシアは泣き出しそうなことに気付かれたくなくて、鼻から下を両手ですっぽり覆って深く呼吸をした。
「…よかった」
バロー医師は労うようにアルテミシアの肩に手を置いた。
「しかし、油断は禁物だよ。二人とも神経を麻痺させて全身の機能を奪う猛毒を受けたんだ。尚且つ君の身体には意識障害と幻覚を引き起こす毒が入った。ただでさえキツい任務だったのに、精神が参らない方がおかしいよ。今はとにかく休むことだけを考えなさい」
「…毒のせいで悪夢を見ることもありますか」
「よくある」
バロー医師はキルトのカバーを取り、カップに茶漉しを乗せると、ポットから濃い緑色の茶を注いだ。茶漉しにくたくたの葉が溜まっていく。アルテミシアは強烈な匂いに顔をしかめた。
「ただし、矢の毒というよりも香に混ざっていた幻覚剤の作用だろうと思うよ。ただ、その二つが合わさってどんな副作用が出るかははっきりしないが、ひょっとしたら通常よりも少し後を引くかもしれない。どちらも強烈だからね」
「このお茶みたいに?」
アルテミシアはカップを手に取り、鼻に近づけて鼻の頭に皺を寄せた。バロー医師はくつくつと笑い声を上げた。
「これはね、アルテミシア」
「はい?」
「ん?」
「…ああ、ヨモギのお茶のこと。名前を呼ばれたのかと思った」
「それでミーシャか。いい名だね。親御さんはセンスがいい」
アルテミシアはむずむずと口を歪ませた。
「他にもいくつか薬草が混ざっているから、ちょっと飲みにくいかもしれないが――」
アルテミシアは一口飲んだ。が、左右に大きく口を開けたまましばらく舌すらも動かすことができなかった。
「ちょっとじゃないです」
「ハハ、我慢なさい。たくさん飲んで、たくさん排出すればすっかり良くなるよ。しばらくは脂の多い食事は控えて、消化しやすいものを」
「はい」
「では、また三時間後に様子を見にくるよ」
バロー医師が立ち上がると、アルテミシアは無意識のうちにその白い袖を掴んで引き止めた。バロー医師は子供にじゃれつかれた父親のように優しく笑み、どうしたのかと訊ねるように首を傾げた。
「あ、すみません…。何でもありません」
アルテミシアは袖から手をパッと離し、バツの悪さを誤魔化すためにもう一口最悪な苦さの茶を飲んだ。
「何かあったら、また呼びなさい。幸い、オアリスの医師に君たちのことを引き継ぐまでまだ時間がある」
アルテミシアは礼を言ってバロー医師を見送った後、大きく溜め息をついた。
(バカなことをした)
引き止めて何を訊く気だったのだろう。ユルクス大学に留学していたことはあるか?グレタという名の女性を知っているか?名前を変えたことがあるか?わたしと何か繋がりを感じないか?
(吐き気がする)
親切で善良な人との繋がりほど、今の自分に似つかわしくないものはないというのに。
バロー医師が出て行った後、アルテミシアは木綿の毛布に頭まですっぽりと包まり、胎児のように丸まって膝を抱えた。
眠るのが怖い。またあの夢を見るかもしれない。あの夢は、自分がどれほど冷酷な人間か思い出させる。ロクサナは正しかった。確かに自分と彼女の間には、繋がりがある。心の奥に抱えた憤怒、復讐心、求めたもの。
彼女のしてきたことを知っていながら、‘家’と心中することを選び海に散ったあの女を憎むことができなかった。
――毒はあなたよ。
目を閉じると、少女のようなロクサナの声が聞こえた。
「これも幻覚?」
アルテミシアは暗闇に向かって話しかけた。
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