五十九、インフェルノ - inferno -

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五十九、インフェルノ - inferno -

「よく眠れたようですね、お二方」  この一言が二人を目覚めさせた。  アルテミシアはできることなら目を閉じたままでいたかったが、現実はそうもいかない。隣から「ああ」とサゲンの苦々しげな返答が聞こえ、アルテミシアは薄目を開けてそろりと頭を持ち上げた。  ベッドの脇に呆れ顔のバロー医師が立っていた。ちょっと怒っているようにも見える。ベルージ邸でロベルタや女中に見つかった時はそれほどでもなかったのに、何故かひどく気まずかった。アルテミシアは耐えきれず、するすると毛布の中に潜り込んで親からの叱責を逃れる子供のようにサゲンの手をきゅっと握った。 「診察の前に、君たちには入浴が必要かな。風呂を用意させます」 「…痛み入る」  やれやれと溜め息をついたバロー医師にそう告げて、サゲンは毛布の下でアルテミシアの頭をぽんぽんと撫でた。  二人はそれぞれの部屋で簡単な湯浴みをし、昨夜脱ぎ捨てた寝衣と部屋着に身を包んだ後、バロー医師からたっぷりの説教と細やかな診察を受けた。バロー医師は終始呆れた様子で「まさか二人とも同じ部屋にいるとはね」とか、「あれほど安静にと言っておいたのに」とかぶつぶつ言っていたが、最終的に二人に対して外出許可を出した。女王への報告と今後の対応に関する話し合いをするため、できるだけ早くオアリスへ引き上げる必要があるということも、理由の一つだ。  診察を終えると、サゲンは真新しいシャツの上にイノイル軍の濃紺の上衣を羽織り、アルテミシアはエラが用意してくれた女性用の軍衣に身を包んだ。アルテミシアは軍衣に袖を通すのがひどく久しぶりに感じられた。こうしてようやく遅めの朝食を取ることが叶った二人の元へ、イグリが顔を出した。 「おはようございます。上官、ミーシャ。二人とも、やっぱり軍装の方が健康的でいいですね」  イグリは、サゲンには真面目くさって神妙な顔をしたが、アルテミシアにはニヤリと笑ってウインクをして見せた。今朝のことが耳に入っているのだろう。明らかに揶揄っている。さすがにアルテミシアも恥ずかしくなり、バターのたっぷりついたバターナイフとパンを手に持ったまま赤く染まった頬をむっと膨らませた。 「イグリ・ソノ」  眉間に皺を寄せたサゲンの不機嫌そうな声色に、イグリはピッと背を伸ばした。 「はっ。南エマンシュナの裁判官から遣いがありまして、こちらを上官宛てに預かりました」  イグリはサゲンに緋色の封蝋が押された巻紙を手渡した。サゲンは分厚いハムの刺さったフォークを皿に置いて封を開け、上から下までサッと見ると、アルテミシアの目を見て無言で手渡した。アルテミシアはむぐむぐとパンを噛みながら書面を読んでいたが、まだ塊の残ったままのパンを半ば無理矢理喉に押し込んで沈黙し、眉の下に暗い影を落とした。 「…今日、ちょっと、外出する」  アルテミシアは硬い声で告げながら書面を巻き直してサゲンの方へ置き、まだ湯気の立っているコーヒーを一口で飲み干して、こんがり焼けたベーコンを二枚と目玉焼きを半分皿に残したまま席を立った。 「一人で行くから」  アルテミシアがそう言うと、サゲンは開きかけた口を閉じ、頷いた。 「…わかった」  アルテミシアが部屋を出た後、イグリはそれまでアルテミシアが掛けていた椅子に腰を下ろし、サゲンの咎めるような視線も気に留めずフォークを手に取って皿に残った目玉焼きを食べ始めた。 「食べ物は残すなって、バルカ隊のルールでしょう。ずっとあなたの下にいるから染み付いてるんですよ。早朝から動き回ってて腹も減ってるし」  もっともらしい言い訳を白々と言い放ったイグリに向かって、サゲンは唇の片側を苦笑したように吊り上げ、自分の皿に乗っているブリオッシュを一つイグリに分けてやった。 「…ヒディンゲルの件ですね。何て?」  イグリはブリオッシュを手に取り、大口を開けてかじり付いた。  サゲンは無表情で書面をイグリの方に置き、コーヒーカップを手に取った。が、既にカップが空であることに気付いて、イグリがテーブルの中央に置かれていた銀のポットからコーヒーを注いだ。イグリは上官への心ばかりの給仕を終えると丸まった書面を手に取って開いた。  文字にサッと目を通しただけで、イグリは書面を忌々しげにテーブルへ戻し、ベーコンを二枚ザクザクとフォークに刺して一口で食べた。サゲンは書面を巻き直してテーブルの隅に置いた。 「衰弱が著しく、あと二日生きるか分からないそうだ。裁判は被告人不在で行うことになる」 「’収監不可能’…予想通りですね。贖罪も無く、死後の世界に逃げられるんだ。ムカつきますよ」  サゲンはコーヒーを口に運びながら、ワシワシとブリオッシュを頬張るイグリの陰鬱な顔を見た。ヒディンゲルは現在南エマンシュナの中心地にある王立病院の囚人棟で治療を受けながら裁判を待っている。イグリがあの現場を真っ先に目の当たりにしたのだ。ヒディンゲルの病状から考えてある程度予測していたとは言え、アルテミシアと同じくらいやり切れない気分だろう。 「死をもって断罪できないとしたら、あいつへの罰って何なんでしょうね」 「もし地獄が存在するなら、話は早い」  と、珍しくサゲンが皮肉を言った。できることならアルテミシアの代わりにこの手で殺してやりたいとさえ思った。が、決して叶うことはない。 「ミーシャのやつ、会いに行く気でしょうか」 「そうだろう」 「大丈夫なんですか。ヒディンゲルの屋敷でこれ以上ないってくらい胸糞悪いものを見てきた上、死にかけてからまだ何日も経ってないのに…」 「彼女がそうしたいと言うなら止められない。必要だと言うなら、尚更」 「でも、無理にでも一緒に行くかと思ってました。それか、他の誰かを行かせるか」 「あれが聞くと思うか」  イグリはブリオッシュを食べ終わった手をナプキンで適当に拭いながら、上官の顔を少々驚いたように見た。 「こりゃまた、えらく弱気ですね」  イグリはアルテミシアが半分残した目玉焼きを丸ごとフォークで刺して持ち上げ、口に放り込んだ。サゲンは苦々しく奥歯を噛み、腕を組む代わりに硬く握った両の拳を静かに突き合せた。  慎重にもなる。  ベッドでどれだけ情熱的に愛し合っても、他愛も無い会話で笑い合っても、ふとした瞬間に彼女の瞳が翳り、誰の手も届かない深淵を覗き込んでいるような顔をする。生きているうちにヒディンゲルを裁けないと知った彼女の表情を見て確信した。アムの海賊に刃を突き立てた時とまるで同じ顔だった。  しかし、簡単なことだ。傷を負ったなら癒やせばいい。問題は、アルテミシア自身がどうやらその傷に向き合おうとしていないことだ。どうもサゲンと一緒にいることで気を紛らわせようとしているような気がしてならない。それで癒やせるものなら、いくらでも一緒にいてやりたいとも思う。が、これはそういう類いのものではないことをサゲンは理解している。  正直なところ、サゲンも彼女の傷に触れてよいものかどうか判断がつかなかった。下手を打てば、取り返しのつかないことになる。確証は無いが、そんな気がする。 「惚れた弱みですか」  イグリは揶揄うでも皮肉るでもなく、くそ真面目な顔をして言った。 「青二才が」  サゲンは苦笑してイグリにコーヒーを注いでやった。‘黙れ’ということだ。が、イグリは無視して続けた。 「いやだなあ。上官より若いけど、付き合った女性は俺の方が多いですよ」 「寝るだけを付き合うとは言わん」  サゲンはいつもの調子に戻って軽口を叩いたイグリをピシャリと一蹴した。 「じゃあ、ちょっと俺の相談に乗ってくださいよ…。あ、お忙しいのは承知してます。コーヒーを飲む間だけ」  イグリはコーヒーに口を付け、この男にしては珍しく自信なさげにぼそぼそと呟いた。  アルテミシアは屋敷で借りてきた芦毛の馬から降り、王立病院の門前に立った。  磨き上げられた大理石の太い柱にアーチ型の鉄の門が取り付けられ、その奥の四角い石畳の小道の五メートルほど先に、真っ白な半円形の屋根を持った建物がある。屋根のてっぺんには薬壺を左手に持ち薄絹のローブを纏った医神の彫像が、もじゃもじゃの髭を誇らしげに胸へ垂らし、高い位置に昇った太陽の光を受けて神々しく立っている。  病院の前には入院患者を見舞いに来た者が何人か訪ねて来ていて、開け放たれた門を入っていくところだった。見るからに富裕層所有の立派な馬車が敷地の中に何台か停めてあるのが見えた。彼らは自分の家族や友人が怪物と同じ病院にいることを知っているのだろうか。と、アルテミシアは冷え冷えとした気分になった。 「あなたもどなたかのお見舞い?」  とふくよかな老齢の貴婦人に問われたアルテミシアは、馬の手綱を門に繋ぎながら「いいえ」と素っ気なく答えた。どちらかというと、「地獄に落としに来た」と言う方が相応しい。  病院の開け放たれた木製の扉の中に足を踏み入れると、薬草や酒の混ざった匂いがした。入り口の脇に設けられた小窓から灰色の髭を蓄えた中年の守衛が顔を出し、見舞い客の名前を一人一人尋ねている。先程の老齢の貴婦人の後で、守衛はアルテミシアの方を向いた。 「どなたのお見舞いで?」  女性の軍装が珍しいらしく、普通の口調で尋ねながらも少々驚いたような目をしている。 「囚人棟はどこですか」 「ああ」  守衛は合点がいったように頷いて、ちょっと憐んだような顔で微笑んだ。 「あんたも大変だね。女の子なのに。囚人棟は、建物のいちばん奥の扉を出て、中庭をまっすぐ進んだところにあるよ」  アルテミシアは「女の子なのに」という言葉に突っ掛かるようなことはせず、ぺこりと会釈して奥へ進んで行った。  囚人棟は、中庭に出て二十メートルほど離れた場所にあった。周囲は木々に覆われ、半円形の屋根を持つ美しい通常病棟から隠れるように、ひっそりと建っている。灰色の石造りの二階建てで、美しい屋根はなく、天窓のついた三角屋根の質素な建物で、全ての窓に鉄柵が取り付けられている。周囲は二メートルほどの高さの柵で覆われ、門前にはエマンシュナ陸軍の深紅の軍服を着た軍人が二人立っていた。二人の門番は長い槍を交差させ、アルテミシアに用向きを訊いた。 「ラウル・ヒディンゲルを見に」 「会いに(・・・)、だろ?」 「いいえ、見に(・・)来たの。会話をする気はないし、できないでしょ」  嘲笑うように唇を歪めた女を見て、門番は首を傾げた。着ているものは軍服のようにも見えるが、丈の短いドレスのようでもあるし、見慣れない。その上、彼女自身がなんとなく風変わりだ。怪しむに十分だった。 「お前、名前は?」 「イノイル王国イサ・アンナ・シトー女王陛下付き通詞、アルテミシア・リンド」  門番は互いの顔を見合わせ、アルテミシアへの態度を改めた。 「失礼。許可証はお持ちですか」 「ないけど、必要ならわたしが港に行ってバスケ元帥に直接貰ってくる」 「ああ、いえ、結構です」  二人とも、多忙な大ボスと隣国の女王の通詞を煩わせるほどの度胸はない。槍を真上に向け、門を彼女のために開いた。  囚人棟の内部は、鉄柵と周囲を囲む木々と灰色の石が剥き出している内装のせいで、外の陽気が嘘のように暗く、冷気が漂っていた。窓だけでなく、それぞれの病室に設えられた木製の扉の前にも鉄柵のついた扉が取り付けられ、施錠されている。二階に続く階段にも鉄柵の扉が設けられ、その奥から口汚く誰か、或いは何かを罵倒する声やぶつぶつと何か呪文のような言葉を呟く薄気味悪い声が聞こえて来る。中に見舞い客らしい人物はおらず、病気の囚人でない者はみな門番と同じくエマンシュナの軍服を着ていた。門番と違うのは、バロー医師と同じく左の腕に杖に巻き付いた蛇の腕章が取り付けられていることだ。この棟では軍医が診察や治療に当たるらしい。  ヒディンゲルの病室は、一階の隅にあった。他の病室と同じく、木製の扉の上に鉄柵の扉が設けられ、鎖のついた錠が掛けられている。近くにいた赤毛の若い軍医に声を掛けると、労うようにゆっくりと頷いて鍵を開けてくれた。 「もし尋問に来たのなら、残念ですが…」 「知ってる。もう起きないんでしょう」  アルテミシアが抑揚のない声で言うと、軍医は無言で頷いた。 「…何かあれば、そこにいるので」  アルテミシアは若い軍医に目礼し、狭い病室へ入った。  窓際に置かれた質素なベッドに、痩せこけたラウル・ヒディンゲルは目蓋を閉じて横たわっていた。相変わらず生きているのか死んでいるのか判別できない。  眠り続けるこの弱々しい老人に対して、一体どういう感情を持つべきなのか、よく分からない。憐れみなど睫毛の一本ほども湧いてこないし、もはや殺したいとも思わない。ただ、ひどい嫌悪感だけがある。どれだけ憐れみを誘う姿で弱っていようと、この男は怪物だ。  アルテミシアはゆっくりと歩いて怪物の枕頭に立った。 「ラウル・ヒディンゲル」  冷たい声で呼んだ。 「お前が奴隷と呼んでいた息子たちはわたしたちに協力した。お前が庭に埋めさせた女の子たちも見つけた。取り引き相手の海賊団は壊滅した。お前が売り飛ばした女たちも必ず見つける。母親の骨灰も肖像画も髪の束も、二度とお前の元へ還らない。息子たちも、少女たちも、誰一人、二度とお前のものにならない」  怪物は小さく胸を上下させ続け、生気の無い呼吸を繰り返している。 「お前は誰にも看取られず、誰にも悼まれず、たった一人、囚人墓地に葬られる。お前の負け」  アルテミシアは物言わぬ怪物を見下ろし、背を向けた。――その時、ガラガラと息を吸う音が聞こえた。アルテミシアは反射的に背後を振り返った。  ラウル・ヒディンゲルの落ち窪んだ眼窩の中で薄っすらと目が開き、鈍い光を放っている。 「…ああ……新しい、花嫁だね」  不気味な声だった。ところどころひどく掠れてただの摩擦音になり、声になっていない。アルテミシアの身体にざわざわと恐怖が広がった。 「きれいな髪だねえ…。わたしの母のように、きれいだ…」  そう言ったきり、ヒディンゲルは再び目を閉じ、小さく静かな呼吸を始めた。 「地獄で永遠に苦しめ、怪物」  そう吐き捨てた後は、よく覚えていない。  気付いたら芦毛の馬に跨り、逃げるように物凄いスピードで通りを駆けていた。南エマンシュナの湿気を含んだ晩秋の風が冷たく吹いているというのに、身体中にじっとりと嫌な汗をかいていた。  あれは、この世で最も醜悪なものだ。  別段神も精霊も信じているわけではない。それなのに、 (魂が汚された)  そう感じた。 「あなたも一緒だと嬉しいわ」  どこからともなくロクサナの声が聞こえた。  二日後、イノイルへ帰国するために船へ乗り込んだサゲンのもとへ、ヒディンゲル死亡の報せが届いた。  アルテミシアは「わかった」と言ったきり、その話題を口にしなかった。
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