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六十、心の檻 - il Cuore Chiuso -
事後処理のために現地に残ったゴランとリコの隊を除くイノイル軍を乗せた船団がイノイル王国のティグラ港へ向けて出航してから、七日が経った。強風と荒天で予定よりも遅れているが、幸い昨日から天候が回復して海も穏やかさを取り戻したため、明日中にはティグラ港に着くだろう。
船団の先頭を行くガレオン船に、ナヴァレの軍医として派遣されたバロー医師もサゲンとアルテミシアの主治医として同乗している。出航の際にイノイル海軍の医師が引き継ぐと申し出たが、オアリスの宮廷に仕える侍医に彼らを託すまでは、毒の専門家である自分が診ると言い張ったのだ。
この日の昼下がり、サゲンは指揮官専用の船室でバロー医師の診察を受けた。
「幸運でしたね、将軍。傷の中に残留物がなかったお蔭でうまく治癒してきています。薬もきちんと塗っているようですし、感染症も今のところありませんね。神経も無事と見立てましたが、まだ腕や指の動きに異常はありませんか?」
サゲンは左腕を軽く持ち上げ、指をぐねぐねと動かした。
「薬の時間を過ぎるとアルテミシアがうるさいんだ」
バロー医師はニッと微笑んだ。
「そうでしょうね。あなたが目を覚ました日、安堵して長いこと泣いていた」
「彼女があなたの前で泣いたのか」
サゲンは眉を上げた。彼女が涙を見せる相手は、ごく限られている。
「ええ」
「…あなたに気を許しているようだ」
多少、面白くない。声色に表れていたらしく、バロー医師が苦笑した。
「ミーシャはうちの息子たちと同じ年頃ということもあってね。外見の特徴もどこか類似するところがある。なんとなく、他人のような気がしないんですよ」
「あなたにそんな年の息子がいるとは、驚いた」
見たところ、年は自分と十も変わらないように見える。
「ハハ、若いうちに結婚したんですよ。妻は幼馴染みで、親同士も親しくしていたものだから、自然な流れで」
バロー医師が目元を和らげた。初めて会った時から思っていたことだが、どことなく面立ちがアルテミシアに似ている。
「結婚は、いくつの時に?」
と、サゲンが尋ねたのは、この医師の結婚生活に興味があったからでは無論ない。アルテミシアの母親と繋がりがあるのでは感じたからだ。彼女も何か絆めいたものを感じてこの医師に気を許しているのだろう。しかし、バロー医師の返答を聞いてサゲンは考えを改めた。
「十八で結婚して、もう二十二年になります。当時は故郷で医学を学びながら舅の医院で武者修行をしていましたから、とにかく忙しくてね。妻も医師なんです。北エマンシュナのグリュ・ブランという小さな町ですが、そこで唯一の病院だから舅も早く婿が欲しかったんでしょう。わたしと妻が恋人同士になったと知った途端、じゃあ早く結婚しろって、せっつかれました」
バロー医師は可笑しそうに笑った。家族を愛しているのが伝わってくる。
「でも、軍医になったのか」
「ええ。いろいろ経験したくて。国に携わる仕事もしたかった。最初は従軍することに舅もいい顔をしませんでしたが、病院と兼業ということで、妻も説得してくれました。今じゃ、引退した舅の後を継いで妻が病院を取り仕切っています。本当に、素晴らしい女性ですよ」
どう考えても辻褄が合わない。アルテミシアはイノイルにやって来てから程なくして二十一歳になった。例えばバロー医師が当時偽名を使ったとして、もしもアルテミシアの父親であるならば、彼は二十二年前にはユルクスにいたはずだ。それに、この男が妻を裏切るような人間だとは、とても思えない。
サゲンはこの疑惑を忘れることにした。
「わたしのことより、あなたはどうです。ミーシャと結婚するんですか?バルカ将軍」
今度はバロー医師が尋ねた。
「する」
サゲンの答えは簡潔だった。バロー医師が静かに顎を引いて居住まいを正した。
「では、尚更お話ししておかなければならない。単刀直入に言いますが、彼女には助けが必要です。あなたから見て、以前と様子が違うようなことがありませんか」
サゲンは黙した。
「…あるようですね」
バロー医師が先を引き取った。
「何が、とは言えないが――」
口に出すのが憚られるようなことだ。あれ以来アルテミシアは、毎晩のようにサゲンの船室を訪れて共に夜を過ごしている。かと言って身体を求めて来るわけではない。多くの場合はサゲンの忍耐が尽きて事に及ぶはめになるが、アルテミシアの目的はただ共に眠ることだけであるようだった。まるで悪夢に怯える子供のようだ。それなのに、朝になるとケロリとしていつもの調子で笑っている。これまで時折サゲンに見せていた落ち込み方とは、明らかに違う。それだけに、根が深い。
「…どうも、一人では眠れないらしい」
バロー医師は納得したように顎を引いた。
「彼女が目覚めた時に悪夢を見るのも毒のせいかと訊かれましたが、まだ続いているようですね」
「毒と関係が?」
「彼女の場合、二つの毒を受けたために幻覚や精神に作用する効果が強く出たと考えられますが、あくまでそれは一時的なものです。長引いたとしても、今の時点ではとうに毒の効力は消えているはずだ。もしもまだ悪夢を見続けているのならば、単純に死にかけた恐怖がまだ消えないのかもしれないし、彼女自身がもともと抱えていた問題や、何かトラウマとなるような出来事に毒の効果が結びついた結果かもしれない」
(…カノーナス――)
と、サゲンは昏睡から目覚めて以来、爆発の直前のことを初めて思い出した。衝撃の大きさと身体に受けたダメージのせいで、前後の記憶が曖昧だったのだ。
ロクサナと対峙したアルテミシアは、ある時を境に激しい恐怖心を露わにした。顔面は蒼白で、まるで幽霊でも見たような顔だった。あの時は香を嗅いだせいかと思っていたが、恐らく違う。毒ではない何かがきっかけになったはずだ。
(何が引き金だ)
サゲンは目の前に医師がいることも忘れ、目を閉じて記憶を探り出した。
あの時、ロクサナが言った言葉は、「毒を受けた者の多くは一日で死ぬ」というようなことだった。その直後だ。サゲンの死を恐怖したとも考えられる。が、アルテミシアは絶望に打ちひしがれて時間を無駄にするようなことはしない。命が懸かっていれば、尚更だ。
(言葉でなければ、行動か)
しかし、どれだけ思い返してみても、ロクサナが起こした行動といえば、ただ立ち上がっただけだ。或いは、サゲンには見ることのできない何かがアルテミシアには見えたとでもいうのだろうか。
ロクサナが彼女に言っていたことも気に掛かる。自分がまるでアルテミシアの最大の理解者であるかのような口ぶりだった。サゲンにはそれが他人を思い通りに操るための戯言にしか聞こえなかったが、それに対するアルテミシアの反応を見てサゲンが感じたように、アルテミシアが二人の間でしか機能しない呪いのようなものに囚われているのだとしたら――
「…本人が忘れようとしている場合は、どうしたらいい。俺は逃げ場になってやるべきなのか」
サゲンは顔を上げて、目の前で穏やかに座るバロー医師に問うた。
「あなたは彼女の何になりたいんです?それによって、答えが変わってくる」
バロー医師はサゲンの次の言葉を見透かしたように笑っていた。
この夜も、アルテミシアは足音を消しながらサゲンの船室に忍んで来た。軍装のまま、枕を抱えている。
「あの…」
と、アルテミシアはちょっと気まずそうに口を開いた。サゲンは机に向かって書き物をしていた手を止めて紙片とペンを隅に押しやると、身体ごとアルテミシアの方を向いた。
「今日は、…月の障りがあって、…できないんだけど、一緒に寝てもいい?」
サゲンは片眉を上げた。アルテミシアの頬が燭台の灯りに照らされて赤く見える。不安そうだ。
「俺は獣じゃないぞ」
「そうだったっけ?」
アルテミシアがニヤリとしたので、サゲンは安堵した。安堵して初めて、柄にもなく緊張していたことに気付いた。
「…確かに自制が利かないときもあるが、いつもじゃない」
サゲンは椅子から立ち上がり、アルテミシアへ右手を差し出した。
「来い」
アルテミシアは素直にその手を取ると、サゲンの腕の中に収まった。サゲンはアルテミシアの髪に顔を埋めて野花のような匂いを吸い込み、髪を梳くように撫でた。
「身体の具合は?」
「おなかがいたい」
「では温めないとな」
サゲンはアルテミシアの身体を横向きに軽々と抱き上げてそっと寝台に下ろし、薄い毛布をめくり上げて自分もその中に収まると、アルテミシアの腹がぴったりくっつくように身体を抱き寄せた。アルテミシアが胸に頬を擦り寄せてくる。サゲンはほとんど条件反射的に起こる不埒な欲望を忌々しく思いながらそれを黙殺し、アルテミシアの背を撫でた。
「仕事をしてたんじゃないの?」
「下船までに終えれば問題ない。それより、君の方が大事だ」
アルテミシアが僅かに俯いた。耳が赤い。こうやって誰より気を許して甘えてくるくせに、心のいちばん奥の部分には触れさせようとしないのだ。まったく腹立たしい。それに加えて、胸が痛くなるほど愛おしい。
だからこそ、何重にも鎧と鎖を巻きつけて武装した彼女の心の奥に踏み込まなければならない。
「…あの女に何を言われた」
アルテミシアが身体を強張らせた。俯いたまま、答えは帰ってこない。
「ロクサナが君を操ろうとしたのは分かっている。心を踏み荒らされたんだろう。悪夢を見るのは、そのせいだ」
アルテミシアは沈黙したままサゲンの軍服の胸を強く掴み、呼吸を乱した。この問いに答えることを、全身で拒絶しているようだった。
「…それだけじゃない」
言葉が震えていた。
「では、聞かせてくれ」
「いやだ」
「アルテミシア」
「いやだ、話したくない」
アルテミシアはサゲンを突き放し、身体を起こした。サゲンはアルテミシアの手を取った。手は、冷水に浸けた後のように冷たくなっている。
「目を背けずに、直視しろ。あの時、君は何か恐ろしいものを見たような顔をしていた。一体…」
「それ以上言ったら――」
アルテミシアが語気荒くサゲンの言葉を遮った。
「ここから出て行って、誰か他の人に一緒に寝てもらう」
サゲンが眉根を寄せ、怒気を発した。無論、本気でないのは分かっている。サゲンを怒らせて話を逸らせようとしていることも分かっているが、聞き捨てならない。
「子供じみた真似はよせ」
サゲンが静かに一喝すると、アルテミシアはぎゅっと口を引き結んでそのまま黙りこくった。それでも、サゲンの寝台から出て行く気は無いらしい。一度突き放した身体を擦り寄せ、サゲンの背に腕を回してぎゅうっとしがみついた。
「おねがい。今日はこのまま寝かせて」
サゲンは溜め息をついてアルテミシアの身体を優しく包み込んだ。
「…俺は君が大切だ。何よりも」
「うん」
アルテミシアが顔をサゲンの胸に押しつけたまま頷いた。
「時間が掛かってもいい。乗り越えろ。何があっても一緒にいる」
サゲンはその夜、アルテミシアが穏やかな寝息を立て始まるまでぴったりと身体を寄せて赤子をあやすように抱いてやった。
彼女の何になりたいかなど、決まっている。親になりたいわけでも、庇護者になりたいわけでもない。
翌夕、アルテミシアはひと月ぶりにイノイルの土を踏んだ。陽は既に傾き、山の向こうから射して足元に長い影を伸ばしている。
イノイルの水分をよく含んだ土壌の匂いが潮風に乗ってアルテミシアの鼻をくすぐった。南エマンシュナの温暖な空気に慣れていたせいで、冬を迎えようとしているイノイルの空気が肌に刺さるようだ。
厩の方へ足を向けたとき、隣にサゲンがやって来た。
「指揮はいいの?」
「イグリに引き継いだ。俺はこのまま病院送りだそうだ」
ムスッとしたサゲンの後ろから、バロー医師が朗らかな笑顔を湛えて進み出た。
「もちろん君もだよ、ミーシャ」
「わたしの怪我はもう治ってますよ」
アルテミシアが心外だとでも言いたげに目をぎょろりとさせると、サゲンが肩を叩いた。
「聞いておけ。逆らうと診断書に何と書かれるか分からないぞ」
サゲンも不本意そうな口調で言った。同じ事を言われたのだろう。バロー医師は細い目の奥で青い瞳をキラリと光らせた。
「…分かりました」
「よろしい」
アルテミシアが大人しく観念すると、バロー医師が満足げに笑った。
エラはエマンシュナの貿易船に乗っていた。広く備えの多い貿易船に負傷兵が多く集められ、医療班の人手が必要だったためだ。負傷兵の下船を手伝った後、軍医や看護助手の列の一番最後にティグラ港へと降り立った。幸い、船の主がアルテミシアとは旧知のレミだったので、アルテミシアとの昔話を聞くことができ、エラにとっては思いのほか楽しい帰路となった。
船の上から手を振るレミに行儀よく一礼した後、どうやって森の屋敷へ帰るか思案しているところへ、声を掛けてきた者がいる。
「送ろうか」
と言うのである。知らない顔だ。何人もの兵士の手当てをしてきたから、もしかしたら包帯の一つでも巻いたかも知れないが、見覚えがない。とは言え、ありがたい申し出だった。馬車を呼ぼうにも時間が掛かるし、軍港では辻馬車など走っていない。かと言って、負傷兵を運ぶために手配された馬車や馬に相乗りさせてもらうわけにもいかない。エラは相手の顔をじっと見た。頬が丸く、人の良さそうな微笑を浮かべている。いかにも人畜無害といった感じだ。
お願いしようかと口を開きかけたところで、後ろから肩を引かれた。
「申し出はありがたいけど、必要ないよ。俺が送るから」
イグリだった。お互い別の船に乗っていたから、顔を合わせるのは八日前の出航以来だ。それも、最後の接触と言えば、遠巻きに目が合ったのをエラがぷいっとそっぽを向いただけのものだった。
「で、でもアガタさん、バルカ将軍の代理で指揮を執るんじゃ…」
「アガタ隊長、だろ。それに彼女が帰る時間は君が気にしなくていいことだ」
「はあ…」
兵士はちょっと納得のいかない様子だったが、最後にイグリが肩を怒らせて威嚇すると、すごすごと引き下がって隊列に戻って行った。
「それで、わたしはあなたの仕事が終わるのをここで待たなくちゃいけないの?」
エラが口を尖らせた。
「待っててくれると期待して言ったんだけど、だめかい?」
イグリがエラに笑いかけた。エラは膨れたまま肩を竦めた。
「義理はないわ。他に乗せてくれる人を探す」
「俺にしておきなよ。膝をついて懺悔するの、見たくない?」
エラは頬を膨らませたままちょっと思案して、「いいわ」と言った。懺悔なら見たい気もする。
ほとんどの兵士が撤収を終えた後、イグリは港の厩舎から鹿毛の馬を引いてきて、エラに手を差し出した。エラは自分を馬に乗せるために差し出されたものと思ってその手を取ったが、イグリは手の甲に口付けして片膝を地面につき、いつの間に摘んできたのか、黄色と紫の可愛らしいパンジーの花を一輪エラに差し出した。
「わたしは愚かな行いをしました」
イグリが大声で言い出したので、エラはぎょっとして手を引っ込めようとした。が、イグリは手に力を込めて離さなかった。顔はと言えば、全く笑っていない。大真面目だ。晴天のような瞳がエラをまっすぐ見つめていた。
「ほ、他の人が見てるわ」
オアリスの方へぞろぞろと歩いて、或いは馬に乗って行く途中の兵士たちが、何事かとこちらを振り返っている。が、イグリは気にせず続けた。
「心優しく真心に溢れた女性を、傷付けてしまった。それも、自分勝手で、子供じみた理由で。心の底から恥じ、反省しています。君は正しかった。俺は子供っぽくて、場をわきまえていなかった。君はそれを気付かせてくれたのに、君の気持ちを無視して、ひどいことをした。本当にすまなかった、エラ。もし君が許してくれるなら、もう一度信頼を取り戻すために何でもすると誓うよ」
エラは周りをきょろきょろして、最後に肩を落として大真面目な顔のイグリを見た。兵たちはオアリスの方へ向けて進軍を続けているが、明らかに遅くなった。チラチラとこちらの様子を窺っているからだ。恥ずかしさのあまり、顔から火が噴き出るかと思った。
「わかったから!もうやめて!」
イグリはパッと笑顔になった。
「許してくれるってこと?」
「もうとっくに怒ってないわ!わたしも言い過ぎたもの。最後のあれは…確かにやり過ぎだって思ったけど…」
エラは顔を耳まで真っ赤にした。イグリの唇が触れた瞬間の感触が蘇ってくる。
「ひどかった?」
「じょうずだなって思っ…、あっ!そっち?そうじゃなくて…ええと…。ええ。…ええ、そうよ!ひどかったわ!」
慌てふためくエラの様子に、イグリは肩を震わせて笑った。エラは唇をぎゅっと結んで恥ずかしさに震え、イグリの手からパンジーを引ったくるように受け取ってさっさと馬の手綱を掴んだ。
「暗くなってきたから、早く送って。何でもするって、言ったでしょう」
「仰せのままに、お姫様」
「キザな人!」
おかしそうに笑うイグリの手を借り、エラは馬に跨がった。触れた手が痺れるようだった。
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