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六十一、冬の足音 - l'hiver vient -
「帰ったか」
イサ・アンナは喜色を浮かべた。秘書官ロハク・オレガリ・ミシナが神妙に頷いた。
「はい。二人とも負傷したため、今は王立ユヤ・マリア病院に…」
執務机にペンと書類を放り出し、室内用のゆったりしたドレスに長いローブを羽織って席を立ったイサ・アンナに向かって、ロハクはゴホンと咳払いをした。
「外は暗うございます、陛下」
「見れば分かる。わたしは盲目ではないぞ」
「明朝お見えになると使いを出しておきます。今は、この――」
と、ロハクは女王が放り出した書類の山を揃え、向きを直した。
「ご政務を片付けてしまわれるのが賢明かと存じます」
イサ・アンナはさくらんぼ色の唇を苦々しげに歪め、長く息を吐いて、再び腰を下ろした。
「朝一番で行くと伝えておけ。二人には最高の医師をつけろ」
「既に手配しています」
「よい」
イサ・アンナは再び机に向かい、ササッと書面にペンを走らせ始めた。
宣言通り、イサ・アンナは翌朝一番で王立病院へ向かった。ロハクは型通りに王家の波の紋章の付いた馬車を用意させたが、予想通り女王は騎馬で行くと言った。無論、これも用意してある。女王が公的な移動の時に使う美しくほっそりした白馬ではなく、多忙でせっかちな女王が個人的に好んでいる黒鹿毛の駿馬だ。
イサ・アンナは従者たちを病院の入り口に控えさせ、最初にサゲンの病室を訪ねた。医師がサゲンの左肩に真新しい包帯を巻いているところだった。
「ああ、そのまま」
イサ・アンナは立ち上がろうとしたバロー医師に手を挙げて見せ、ベッドに座したまま深々と一礼したサゲンに向かって僅かに微笑んだ。
「ご苦労だった。怪我は大事ないか」
「はい、陛下。バスケ元帥に派遣していただいたバロー医師のお陰で、順調に回復しております」
ちょうど包帯を巻き終えたバロー医師が女王に向かって一礼した。女王はバロー医師に微笑みかけた。
「そなたのことだな」
「はい、女王陛下。クロード・バローと申します」
「我が臣下が世話になった。エマンシュナへの帰路はわたしの船を使うとよい。むさ苦しい軍船よりも快適な船旅になるはずだ。礼の品も持たせよう。無論、バスケ元帥の分も」
「身に余る光栄です」
茶目っ気たっぷりにウインクして見せた女王に、バロー医師もリラックスした笑みを見せた。次に、イサ・アンナはサゲンを見た。
「先達て、敵は壊滅したとの一報を受け取った。大義であった」
「恐れ入ります」
「傷が治るまでゆっくり休むがよい。誰ぞ選んで連絡役を付けるから、退院後もしばらくは登城の必要は無いぞ」
「ご高配に感謝致します」
「そうは言っても、まあ――」
と、扉へ向かったイサ・アンナが立ち止まってサゲンを振り返った。
「そなたもわたしと同じ、仕事が溜まると後で地獄を見るからな。早く治すことだ」
サゲンは苦笑した。
「承知しています」
休ませる気があるのかないのか、イサ・アンナらしい気遣い方だ。
イサ・アンナがアルテミシアの病室を訪ねると、アルテミシアは既に寝衣から軍衣に着替え終わり、ブーツを履いてスカートの裾の皺をパンパンと直していた。戸口に立った美しい花柄のドレスを纏ったイサ・アンナの姿を見ると、花が咲いたように笑った。
「イサ・アンナ様!」
「ミーシャ」
イサ・アンナは両手を大きく広げてアルテミシアを抱擁した。
「少し痩せてしまったな。状況は聞いたぞ。よく帰ってきてくれた」
「これからご挨拶に伺おうと思っていましたのに」
「友がようやっと戦から帰ったのだ。いても立ってもいられず出向いてしまった」
「勿体ないお言葉です」
「もう身体の具合はいいのか?医師は何と言った」
「朝の診察で問題なかったから、もう帰っていいと」
「それは何よりだ。みなそなたの帰りを待ちわびている。ハツカリなどはあれほど新参者を煙たがっていたくせに、いざそなたの仕事を引き継いだら量が多いと毎日文句をたれおってな、’まだリンド殿は帰りませんのか’などと周囲に漏らしているぞ」
と、イサ・アンナがハツカリの甲高い声を真似て見せたので、アルテミシアは思わず笑い声を上げた。
「それは、はは、申し訳ないですね…」
「…?何だ」
イサ・アンナはアルテミシアの顔を見て笑みを消し、首を傾げた。
「え」
「何か言いたそうな顔をしているな」
アルテミシアは思わず笑い混じりの息を漏らした。まったく女王には何も隠せない。
「実は…お願いが」
「そなたはお願いが多いなあ。何なりと申してみよ」
イサ・アンナは母親のように穏やかに笑って見せた。
「本気ですか」
と、ロハクが珍しく女王に向かって大きな声を上げたのは、その日の夕刻のことだ。
「仕方あるまい」
イサ・アンナは侍女に用意させた紅茶には手を付けず、ビロードの布張りの椅子に背を預けて細長い木製のパイプから煙をくゆらせた。花々の刺繍が施されたドレスも、女王の顔を明るく見せてはくれない。
ロハクは黒の長衣の裾を翻すようにして女王の執務机へ近付いた。
「このことは、サゲン・エメレンスは…」
ロハクはイサ・アンナの一瞥で黙った。答えは明白だ。
「しばらく、好きにさせてやれ。あれにとってはキツい任務だった。思うところがあるのだろうよ」
「陛下がそう判断なさったなら、わたしは何も申し上げません。ですが――」
ロハクは溜め息をついて女王の顔を見た。漆黒の瞳が煩そうにロハクを見返した。
「…荒れますよ」
「承知の上だ。わたしも、ミーシャも」
先が思いやられる。ロハクは頭を抱えた。
海賊の討伐は終えたが、これから捕縛した者や関係した者の尋問や裁判と、それに関わる証拠の整理、協力国との折衝など、これからの仕事が山積みだというのに、また悩みの種が一つ増えてしまった。
森の屋敷へ帰ったアルテミシアは、使用人たちから大歓待を受けた。
料理人のマキベがいつも以上に腕を振るって胸焼けしそうなほど大きなステーキとほかほかの焼きたてのパンと畑の野菜がたっぷりと入ったスープを用意してくれたので、アルテミシアは先に戻っていたエラとケイナと執事のシオジや厩番や他の使用人も呼んで、みんなで食卓を囲むことを提案した。品行方正なシオジは使用人が主と一緒に食卓を囲むことにかなりの抵抗を見せていたが、アルテミシアの一言で考えを変えた。
「サゲンもまだ帰って来られないし、一昨日まで船のみんなで食事をしていたから、一人で食べるのは、すごく寂しいんだ」
この一言に、涙もろいシオジは目を潤ませて「謹んで、ご相伴に預かります」と使用人の食事を盆に載せて進み出た。強面のシオジが表情筋に神経を集中させて涙を堪えると、いっそう恐ろしげな形相になる。マキベや他の使用人は呆れたように顔を見合わせ、エラとケイナはその様子を見てクスクスと笑った。
夜、浴室で熱い湯に浸かりながら、小さな窓から見える星を眺めた。帰りたい場所にやっと帰ってきた。それなのに、サゲンがいないだけでまるで違う場所のように感じられた。病院を出る前にサゲンの病室に寄った時、「俺はあと四日もここに閉じ込められなければならない」と不機嫌さを隠さずに文句を言っていたのを思い出して、ちょっとおかしくなった。フッと笑うと同時に、鼻の頭が痛くなった。アルテミシアは頭のてっぺんまで湯に沈んだ。
昼間にサゲンが「一人で眠れるのか」と訊いてきたから、「そんなの、とっくに」と笑い飛ばした。嘘だと言われる前に、病室を出た。嘘が吐けないなら、逃げるしかない。そんな自分に心底嫌気が差した。あの夜以来、まっすぐサゲンの目を見ることができない。
(…わかってる)
頭の中でサゲンの言葉を反芻した。
――目を背けずに、直視しろ。
アルテミシアは湯から顔を上げた。あの時見たものは、ロクサナの顔ではない。
(あれは、わたしだった)
三日後のよく晴れた昼下がり、アルテミシアはバロー医師をティグラ港まで見送りに行った帰りにサゲンの病室を訪ねた。王立ユヤ・マリア病院はオアリス城から一キロほど西に位置し、例に漏れずイノイル風の黒い瓦屋根と漆喰の建物だ。完璧なシンメトリーの三階建てのうち、一階の南側の角部屋にサゲンが「閉じ込められ」ている。
バルカ将軍の病室は賑やかだった。廊下の反対側にいても、笑い声が聞こえてくる。扉の手前まで来て、アルテミシアは何となく足を止め、引き戸を少しだけ開けて、隙間からそっと中を覗いた。
寝衣用のシャツに軍衣の上着を羽織ってベッドに腰掛けたサゲンの周りを、四人の貴婦人と五人の紳士たちが囲んでいる。紳士のうち三人は濃紺の軍衣に勲章を付け、後の二人は貴族の平服だった。そのうちの一人は右目に黒い眼帯をしている。士官学校や軍関係の旧友なのだろう。豪快に笑い声を上げてサゲンの名誉の負傷を称え、帰還を喜んでいた。慎ましやかに後方で笑う二人の婦人はこの中の誰かの妻たちであるようだが、サゲンのベッドの脇のソファに腰掛けて朗らかに笑う年配の女性が誰の妻で、誰の母親であるかは明白だ。バルカ子爵夫人――サゲンの母親だ。
バルカ子爵夫人は白髪の多く混じった栗色の髪を一本の乱れもなく上品に結い、深い紫色のドレスに織物のショールを羽織って、器用にナイフでオレンジの皮を剥き、サイドテーブルに置かれた陶の器にこんもりとオレンジの山を作っていた。
「そんなにたくさんは要りません、母上」
と、サゲンが辟易した。バルカ子爵夫人は構わずに足元に置いた籠からまた新しいオレンジを取り出して、皮を剥き始めた。膝に掛けた布の上にオレンジの皮がこちらも山のように積もっていく。
「嘘おっしゃい。こんなのぺろりと食べちゃうじゃありませんか」
深みのある、やや低めの声でバルカ子爵夫人がぴしゃりと言った。
「十代の頃の話でしょう」
「まあまあ。お前が食べられないなら俺たちがおこぼれを頂戴できるんだから、いいじゃないか」
右目に眼帯をした男が笑いながら言った。
「まっ、いいお友達だこと」
子爵夫人はサゲンの友人たちと一緒にころころと笑った。その膝からオレンジの皮が落ちたのを、もう一人の貴婦人が拾った。茶色い髪をふんわりと結い、控えめなアプリコット色のドレスの上に、レース編みのショールを羽織っている。
「あら。ありがとう、ローザ」
「いいえ。これも片付けてしまいますわ」
ローザと呼ばれた貴婦人が子爵夫人の膝からオレンジの皮がこんもり乗った布を両端から浮かせてそっと取り、部屋の隅の屑籠に皮を捨てて布を綺麗に折りたたんだ。アルテミシアは彼女を何処かで見たことがあるような気がした。何処で見たのかと考えるよりも先に、答えが分かった。
「まあ~相変わらず気が利く子だこと。ねえ、もううちへお嫁に来てくださる気は無いの?あなたたち、とってもお似合いだったじゃない?」
と、子爵夫人が余計なことを言ったからだ。
アルテミシアは自分の心臓が嫌な音を立てて軋むのを聞いた。同時に、ロザリア・ボーヴィル伯爵夫人が照れたように笑う上品な笑い声も。彼女は間違いなく獅子と鷲の宴でサゲンと一緒にいた女性だ。そして、サゲンの幼馴染みでかつては婚約者だったこともアルテミシアは知っている。何となく、彼女が今考えていることも分かるような気がした。
「母上」
サゲンが窘めた。
「前にも言いましたが、俺には…」
「恋人がいるんでしょう?覚えていますとも」
子爵夫人は澄まして言った。
「本当か、エメレンス」
「聞いていないぞ」
と、旧友たちが詳しく聞きたがり、その妻たちは扇子で口元を隠してくすくす笑い合った。サゲンは旧友たちに煩そうな視線を投げて黙らせたが、母親にはそうはいかなかった。
「でも、その恋人とやらはどこで何をしているの?この三日、入院しているお前のところに姿も見せないじゃありませんか。婚約したなんて噂も聞きますけど、お前ったらちっともそんな準備をしている素振りがないし。第一、母親のわたしが風の噂で息子の婚約を知ったなんて、まったく、なんて情けないこと」
「忙しいんです。彼女も俺も。つい先日まで任務に就いていたことは母上もご存じでしょう」
会話の雲行きが怪しくなってきた。旧友たちはサゲンに気取られないよう、後ろでオレンジの高く積まれた器を回し合いながらニヤニヤしているが、彼らがオレンジをもぐもぐと口に含みながら面白がっている様子はアルテミシアにははっきりと見えていた。が、アルテミシアにはそれを楽しむ余裕など全くない。奇妙なほど胸が痛かった。
「お前、本当にいるんでしょうね」
「どういう意味です」
サゲンの眉間に深々と皺が寄った。
「見合いが面倒だからと言って、いもしない婚約者をでっちあげてるんじゃないかと言っているのです」
サゲンは呆れて天を仰いだ。途端に旧友たちとその妻たちは弾けるように笑い出した。
「傑作だ!エメレンス」
「まさか堅物のお前がそんな嘘を吐くとはね!」
「茶化すなら全員帰れ」
サゲンが不機嫌に言った。
「怒るなよ」
扉の向こうでサゲンの旧友たちが笑い、サゲンが心底機嫌を損ねた様子で母親に話し掛けるのを聞きながら、アルテミシアはぼんやりと考えた。
何故、わたしが婚約者だと言って出て行くことができないのか。何故、この数メートルの距離が何十キロも離れているように感じるのか。何故、ロザリア・ボーヴィルだけが他の友人たちのように笑っていないのか。――
(…やめた)
アルテミシアはサゲンの病室に背を向けた。自分があの中に入っていくのは、場違いだ。彼女たちがみな美しいドレスで着飾っていて、自分が膝丈の軍衣だからというだけではない。それに、自分の知らないサゲンを知っている人ばかりの空間は、窒息しそうになる。屋敷から持ってきたサゲンの着替えと医師の目を盗んで楽しめるように忍ばせてきた小さな酒瓶は、エラが持たせてくれたバスケットに入れたまま病室の前に置いておくことにした。
「待って」
病棟のアーチ型の出入り口をくぐろうとした時、背後から声を掛けたれた。振り返ると、花の刺繍をあしらったアプリコット色のドレスを着た貴婦人が背筋をまっすぐ伸ばして立っていた。
ロザリアはアルテミシアが予想したよりも速い足取りでこちらへ近付いてくる。口元には礼儀正しい笑みを浮かべていた。
「バスケットは、あなたが?」
「そう」
アルテミシアの返事は素っ気なかった。我ながら、呆れるほど取り繕うのが下手だ。
「あなたがアルテミシアね?」
「あなたはロザリア・ボーヴィル伯爵夫人でしょう」
「ええ、そうよ。どうして入っていらっしゃらないの?エメレンスはあなたを待っているのに」
アルテミシアには返す言葉がなかった。と言うより、今抱えている矛盾だらけの感情を吐露できるほど器用ではないし、この人を相手にそんな必要も無いと思った。だから、何も言わないことにした。
「…サゲンによろしく」
それだけ言ってアルテミシアは出口に向かおうとした。が、
「お待ちなさい」
と言うロザリアの刺すような一言で足が止まった。ロザリアは礼儀正しく微笑むのをやめたらしい。厳しく品定めするような顔で、ロザリアは無遠慮にアルテミシアをじろじろと見てくる。いつもなら売られた喧嘩は買うところだが、残念ながらそんな気にはなれなかった。それに見た目で言えば、相手に分がある。ドレスも髪も、立ち方も化粧も、完璧に洗練された貴婦人だ。
「なるほど、話が進まないわけね」
ロザリアが言った。嘲るわけでも呆れるわけでもなく、どこか憐んでいるように聞こえる。アルテミシアはこれ以上この女性と一緒にいるのが耐えられなくなった。
「…話はそれだけ?」
「いいえ」
ロザリアの断固とした口調に、アルテミシアはうんざりして肩を竦めた。
「差し出がましいのは百も承知ですけれど、エメレンスの友人として忠告するわ。あなたがエメレンスと一緒にいることを望むのなら、今のままではだめよ。彼を大切に思う人たちからは祝福されないわ。部外者のわたしの目から見ても、あなたはバルカ子爵家の嫁として相応しくないもの。海軍司令官のサゲン・バルカ将軍の妻としてもね。どれほどエメレンスがあなたを愛していようと、それだけでは不十分よ。あなたも、分かっているんじゃないかしら」
「友人」
アルテミシアはわざと嘲笑って見せた。
「残念だったね。友人で」
口に出して、何故か自分の胸がチクチクと痛んだ。
「そうね」
ロザリアは哀しそうに目を細めた。
「でもこれからのことは分からないわ。誰にも」
アルテミシアはロザリアの灰色の目をじっと見返すと、精一杯の虚勢を張って笑顔を作った。
「それでは、ご機嫌よう。お優しいボーヴィル伯爵夫人」
それきり、振り返らなかった。
頬を掠める冷気と風の匂いが、秋の終わりを告げている。
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