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六十二、渡り鳥 - Les Cygnes Chanteurs -
早朝、エラとケイナは病院から帰宅したばかりの主人の寝室へ大急ぎで赴いた。何かが激しく割れる音が、奥の部屋から屋敷中に響いたからだ。中には既にシオジがいて、窓際に立ったまま微動だにしないサゲンの右手に布を当てている。布は赤々と血が滲み、床には小さな血溜まりができていた。寝室の中は、酷いものだ。分厚い窓ガラスが砕けて辺りに破片を撒き散らし、主人の退院に合わせて飾っておいた花瓶も粉々になり、残骸となってシクラメンやカンパニュラの花と一緒に水浸しの床に散っていた。
サゲンの顔は、もっと酷い。まさに鬼の形相だった。今にも誰かを殺しそうな顔をしている。割れた窓から入ってくる初冬の冷気が、何倍にも冷たく感じられた。
ただ事ではない。エラとケイナは無言で顔を見合わせた。
どう見ても、サゲンが拳で窓ガラスを叩き割った後の惨状だった。
「ケイナ、あなたは兵舎へ行って、常駐している軍医を呼んできてください。エラは、清潔な布とピンセットをお願いします」
シオジは慌てた様子もなく、いつもと同じように冷静な声色で指示をした。
「はっ、はい」
二人はほとんど同時に返事をすると、静まり返った廊下にパタパタと足音を響かせて行動を始めた。
(何か悪いことがあったんだわ…)
エラは屋敷の中を足早に歩きながら、アルテミシアの姿が見えないことに気付いた。いつもならエラが起こしに行くまでもなく、とっくに起きてきている時間なのに、気配がない。エラは物置から布と救急箱を持ってサゲンの寝室へ戻る途中、アルテミシアの寝室に立ち寄った。扉が開いている。胃がぎゅうっと縮んだ。
誰もいない寝室の奥でベッドが綺麗に整えられ、昨晩着ていた生成りのナイトドレスがきちんと畳んでサイドテーブルに置いてあった。いつもならベッドの上にくしゃくしゃに脱ぎ捨ててあるはずなのに。
エラは恐る恐る中へ足を踏み入れた。扉とワードローブが開け放たれているのは、サゲンが先に入ったからだ。エラと同じようにそこにあるはずのものを探しに来たに違いなかった。そして、サゲンもまた、ワードローブの奥で眠っていた大きなトランクがなくなっているのを見たはずだ。
服は、青い絹のドレスを除いて全てが残されている。アルテミシアの手持ちのドレスの中で二番目に動きやすいものだ。いちばん動きやすい軍衣は、ワードローブのいちばん手前に残されていた。
(ああ、それだけじゃない)
今ひとつなくなっているものに気付いた。エラが初めてアルテミシアと会った時、彼女がアムの海賊船へ乗り込んで来た時に着ていたシャツとズボンだ。
扉を見た時から――多分、サゲンの異常な様子を見た時から予想していた。エラはアルテミシアがこの屋敷を出て行ったことを理解した。
エラはがらんとした部屋を見渡してしばらく呆然としたが、すぐにシオジが主人の手当てをしていることを思い出し、その場をフラリと後にした。
(一体、なぜ?)
サゲンに問いただしたかったが、それを一番知りたいのはサゲン自身だろう。実際、そうだった。
サゲンが最後にアルテミシアに会ったのは、昨夜未明のことだ。
(おかしいと思った)
サゲンは悔いた。
サゲンの眠る病室へ、アルテミシアが忍んで来たのだ。
何時頃だったか分からない。何をきっかけに目を覚ましたのかははっきりしないが、多分目蓋の奥でユラリと揺れた小さな火影だ。
「やっと来たか」
と、半分寝ぼけながら手燭を持って戸口に立つ人影に話しかけた。暗かったが、顔を見る必要は無かった。足音と野花のような匂いが、誰であるかサゲンに教えていた。
アルテミシアが暖炉のマントルピースの上に手燭を置き、サゲンのベッドに近付いた。顔は見えない。
「会いたかった」
そう言って、アルテミシアはベッドの上に身体を乗り上げ、サゲンに抱きついた。
「こんな時間にか?」
この時、含み笑いをしながらアルテミシアの身体を受け止めるよりも問い質すべきだったのだ。今更気付いても遅いことだが、彼女は明らかに様子がおかしかった。その時気付くことができなかったのは、起き抜けでぼんやりしていたからというだけではなく、やすやすと彼女の肉体の誘惑に陥落し、求められるままその身体に溺れたからだ。
「激しくして…」
と、唇に触れるか触れないかの距離で囁かれた後は、野性的な本能だけが身体を支配し、冷静な思考などは朝まで戻ってこなかった。
アルテミシアの身体を組み敷いて唇を荒っぽく塞いだ後、いつものような優しく入念な愛撫などはせずに肌の柔らかい部分に噛み付き、或いは強く吸い付いて中心を貫き、彼女の望み通り荒々しく律動した。指を噛んで声を押し殺す姿が、堪らなく愛おしかった。二人とも体力を使い果たすまで抱き合い、朝になって目覚めると、既にアルテミシアの姿はなかった。この時はまだ、呑気にも屋敷で帰りを待っていると思っていた。陽が昇って医師や看護師と鉢合わせるのが気まずいから、サゲンの退院を待たずに先に戻ったのだろうと、愚かにも考えた。
この腕の中で何度も身体を震わせ、「愛してる」と囁いた彼女の甘やかな匂いがまだ身体中に残っている。
それなのに、彼女は紙切れ一枚をサゲンの机に残して、屋敷を去った。
「旦那様、お手を…」
シオジが血に染まった布の上で拳を開くようサゲンに促した。中には、紙が握られていた。血が滲んで黒い文字が部分的にじんわりと広がっている。そこには、「勝手してごめん」と書かれていた。ちょっと左に傾いた曲線の大きな筆跡は、間違いなくアルテミシアのものだ。
「自分でやる」
初めてサゲンが声を発した。声音は、心中で激しく吹き荒れる嵐とは全く逆のものだった。
シオジはエラに向かって無言で顎を引き、救急箱と布を置いてすぐに辞去するよう言外に指示した。エラは何も言わずに従った。
「軍医が来たら、通しますよ。縫う必要があります」
慎ましやかながら断固とした調子でシオジが言い残し、サゲンは寝室に一人になった。
怪我など、どうでもいい。今は全てを呪いたい気分だった。その中で最たるものは、アルテミシアの愛に慢心していた自分自身だ。
白い曇天の下、四角い帆にエマンシュナ王国公認商船の証である獅子の紋章を染め出した貿易船が、イノイル半島の東側を北上している。
アルテミシアは、オアリスの方角を背に、舳先に座って青いドレスの裾をパタパタさせながら足をぶらぶらさせていた。昨日の早朝に押し掛けるようにして乗船して以来、眠る時以外は船室にも戻らず、冬を運んできた冷たい潮風を身体に受けながら終日そうしてしている。この一日半でやったことと言えば、五本の酒瓶を空にしたことと、遠くで潮を吹く鯨の群れを然したる感動もなくぼんやりと眺めたことだ。こんなに酒を飲んでいるのに、酔えもしない。
「おいおい、なんだよ辛気くせえなあ」
船長のレミがドカドカと足音を響かせてやって来た。アルテミシアは無言で振り返った。寒がりのレミは長く伸びた茶色の髪を後ろで一つに縛り、生成りのシャツの上に毛皮のコートを着て、酒瓶を片手に仁王立ちしている。四角い顎に生えた無精髭は、アルテミシアがユリオラ号に乗っていた時と変わらない。
「昨日いきなり港へ現れて‘乗せろ’って、それっきりだんまりじゃねえか」
「うるさいな。話したい気分じゃないんだよ」
アルテミシアの声は、昨日の朝から休まず酒を飲み続けているせいで掠れている。変声期の少年のような声だ。
「お前、またそれかよ。六年前と一緒だな。進歩のねえやつだぜ」
レミがドカッとアルテミシアの隣に腰を下ろし、ワインの入った瓶を差し出した。アルテミシアは無言で受け取ると、瓶の口からワインをぐびっと飲んだ。
「…イノイルの酒の方が旨い」
「文句言うな。ちょっと見ない間に贅沢になったんじゃないか?お前はやっぱりオヤジがいないとだめだな」
オヤジとは、二人の航海術の師、バルバリーゴ船長のことだ。レミは面と向かっては「船長」と呼びながら、よく陰で「オヤジ」と呼んでいた。アルテミシアは片方の口角を少しだけ上げた。
「よお、オルカの婚約者はどうしたんだよ」
アルテミシアは笑みを消した。
「それを話したくないって言ってんの」
「ははーん。あれか、痴情のもつれってやつか」
「うるさい、レミ」
レミは黙らなかった。
「オルカって、あれだろ?海軍の司令官のデカいやつ。バルカ将軍だっけ?」
アルテミシアは黙殺してワインを飲み続けた。
「さてはお前、遊ばれたな?」
「サゲンはそんな人じゃない」
怒りを滲ませながら否定すると、レミがせせら笑った。
「おい、本気で惚れたのかよ。釣り合わねえだろ、海軍将校のお貴族さまと船乗りのガキじゃあ」
「ガキじゃない。女王の通詞だよ」
「だった、だろ。もう辞めてきたんだから」
アルテミシアはレミを睨みつけた。正しくは、違う。暇を申し出たが、女王は許さなかった。その代わりに、「戦功の褒美と療養」という名目で長期休暇を与えたのだ。が、アルテミシアは戻ることを保証しなかった。
「…とにかく、サゲンは立場とか身分で人を見たりしない。それに――それに、サゲンは、わたしのことは…」
ここまで言って、目の奥が熱くなり、鼻の頭が痛くなった。涙が溢れるのを我慢するために、酒瓶に口をつけた。味など、もう分からない。
「愛してる。何より。本気で…」
「じゃあ、重すぎたってのか?」
アルテミシアは首を振った。
「…レミなら、何より大切な人に毒林檎を食べさせようと思う?」
「なんだそりゃ。わけが分からねえ」
「いろいろと複雑なんだよ」
「まあ、お前がどれだけ理屈を捏ねたってよ――」
と、レミがアルテミシアから酒瓶を取り上げてワインを飲んだ。
「単純なことだ。お前がしたことは一言で片が付くぜ」
レミが酒瓶を持つ手の人差し指を立て、アルテミシアの顔に向けた。
「お前は逃げを打ったんだよ。お前の得意技だもんな」
この挑発に、アルテミシアは激怒した。
「クソ野郎!」
と、ルメオの言葉でレミを悪罵しながら猛然と立ち上がり、右手で侮辱的な動作をした。
「ドレス着た女に凄まれても怖くねえ」
レミは興醒めしたようにやれやれと首を振った。アルテミシアは鼻に皺を寄せ、奥歯をぎりぎりと噛んだ。初めてアルテミシアがバルバリーゴの船に乗った日も、こんな調子でズケズケと痛いところを突かれ、喧嘩になった。バルバリーゴがレミに向かって「やめろ!」と雷が鳴るように怒鳴りつけなければ、殴りかかっていただろう。が、その様子を見ていた他の仲間は敢えてアルテミシアの過去をほじくり返すようなことをしなかったから、レミの言動はある意味でアルテミシアに有利に働いたとも言える。
しかし、今はそれはどうでもいい。
「あんたこそ成長しないね、レミ」
レミは構わず喋り続けた。
「絹のドレスなんか着て、ちったぁ小綺麗になったかと思ったらよ、中身はガキのまんまじゃねえか。お前、この半年間イノイルの女王のとこで何してきたんだ?」
「…ご立派なレミ先輩に報告できるようなことなんか、何もないよ」
アルテミシアは語気荒く言ってレミに背を向け、下のデッキへ続く階段へ足を向けた。
「おい、ミーシャ。明日は船の仕事手伝えよ。わざわざお前のためにトーレへ向かってやってるんだからよ」
レミがアルテミシアの背中に向かって言うと、アルテミシアがうんざりして振り返った。
「金は渡した。それにレミだってトーレに寄港する予定だったでしょ」
「馬鹿野郎。報酬は女王にたんまり貰ったんだ。お前にまで雇われる気はねえ」
レミは懐から手のひらからはみ出るほどの大きさの革袋を出し、アルテミシアの顔を目掛けてビュッと放り投げた。アルテミシアは顔にぶつかる寸前で革袋を受け止めた。革袋はジャラリと音を立て、アルテミシアの手にずっしりと重たい衝撃を与えた。アルテミシアが昨日の朝、レミに押しつけるようにして渡した運賃だ。最後の登城の時に女王から有無を言わさずに渡された路銀が全て入っている。
「いいか、手伝えよ」
念を押したレミには何も言わずにジロリとひと睨みすると、アルテミシアは下のデッキへ下りていった。
翌早朝、船尾でピカピカの大きな操舵輪を動かしているレミの元へ、アルテミシアが姿を現した。
「すごい。最新式」
昨日の喧嘩が嘘のように、アルテミシアはケロリとしている。レミとの喧嘩は、いつもこうだ。
「おう、来たな。弟」
「イグリには妹って言ったでしょ。どっちかにしてよ」
「その格好じゃ、妹とは言えねえな」
レミはニヤリと揶揄うように笑った。
アルテミシアは麻のシャツに茶色いズボンを履いて革のベルトを締め、ズボンの裾をブーツにしまい込んで、肩の下まで伸びた髪を後ろで一つに縛っている。
「じゃ、あとはお前やっとけよ。俺は寝る」
「はっ!?ちょっと…」
「ああ、忘れてた。ほら」
言いながら、レミはアルテミシアにオオカミか何かの毛皮でできた灰色の上着を投げた。アルテミシアは片手で操舵輪を掴みながら、もう片方の手で毛皮を受け止めた。
「くさっ!誰のだよ、これ!」
「俺のだよ、馬鹿野郎。大事な弟分が身体を冷やさないようにとっておきの毛皮を貸してやった俺の深ぁい思いやりに感謝しやがれ」
アルテミシアは渋々毛皮を羽織った。獣と古びた酒と人間のにおいが混ざった悪臭がするが、確かに寒い。昨日はそれほどとも感じなかったが、今日は底冷えするほどだ。
「じゃあな」
「待ってよ、レミ。最新式のは初めてだよ」
「ユリオラ号とそんなに変わらねえって。分からなきゃ、そこらへんにいるやつらに聞きな」
レミがさっさと下のデッキへ下りていった後、アルテミシアは周りを見た。操舵席に女が立っているのを、物珍しそうにレミの若い船員たちがじろじろと見ている。こちらから声を掛けたら質問攻めにされそうなほどに。
(‘お前には雇われない’とか言って、こき使いたかっただけじゃないの)
アルテミシアは溜め息をついて、舵を取った。冷たい風が頬を刺した。
本当は何もしたくない。ただもう一度ハンモックの寝床へ戻って、サゲンの声と匂いを思い出しながら昨夜も見たサゲンの夢の続きを見たかった。最後の夜に身体中で感じたサゲンの汗と、繋がった身体の奥で身体を震わせ、快楽に眉を歪めて呻いた時の、あの吐息の熱も、今はまだ身体が生々しく記憶している。ちくちくと唇に刺さる無精髭の感触でさえ、愛おしくて、恋しくて堪らない。
自分の欲望も、愛も、安らぎも、胸の高鳴りも、全てがサゲンのものだ。これほど多くの感情を捧げられる人は、もうこの先現れない。そう確信できる。
それなのに、彼が最も愛する者を愛せない。何故ならそれは、卑怯で、卑屈で、利己的で、とても冷酷な人間だから。
(そういう時は、どうしたらいいの)
渡り鳥の群れがコウコウと噎ぶような声を響かせながら、頭上を飛び去っていく。アルテミシアは無意識のうちに、船乗りの歌の一節に乗せて呟くように口遊んでいた。
「教えてシニュ・シャントゥール、知っているなら、白い冬空の王…」
人生で最も深い愛を知ってしまった人間が、それを消すことも叶えることもできずに死ぬまで心の奥に抱え続けたら、どうなるのか。
波の音だけがやけに鼓膜に響いた。
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